2007年03月20日
野鳥の習性 (湖北野鳥センター)
琵琶湖の北、湖北町に「湖北野鳥センター」という施設があり、去年の夏に行って以来、非常に気に入っています。
長浜よりさらに北、あと少しで福井県というあたり。ここまで来ると琵琶湖の水はとても澄んでいて綺麗です。
実は知り合いが以前、「琵琶湖で増えすぎたカワウを何とかする方法」という研究をしていて、その時は「ふーん」という感じだったのですが、実際に野鳥センターでカワウの圧倒的な大群を目にしてみると、その研究の意義が実感できました。
ここでカワウが見られるのは主に夏。一方、冬の間はシベリアからやってくるコハクチョウが有名。
館員さんたちが常時三人くらいいるのですが、とても丁寧に説明してくれて、野鳥への深い愛が伝わってきます。
野鳥センターは琵琶湖の東岸に位置するため、午後になると逆光で鳥の姿がシルエットになってしまうそうで、見に来るなら午前中の方がいいとのこと。
以下、教えてもらった様々な鳥の特徴。その時取ったメモの書き写しですが。
【カワウ】
琵琶湖で増えすぎて問題になっている。湖面を大群で飛んでいく様は圧巻。
琵琶湖に浮かぶ竹生島は昔はアオサギの営巣地だったが、いつの頃からかカワウが増えていった。
天敵がいないということで、全国から集まってきたようである。
大きな群れで行動することにはメリットがあって、一羽がアユを見つけたらみんなが食事にありつける。アユも群れているから。
冬場、餌が少なくなると琵琶湖からいなくなる。大阪や東京、鳥取まで行っているらしい。
水に潜って魚を掴まえるのが非常に上手く、その性質を利用したのが鵜飼い。
ただし長良川の鵜飼いはカワウではなくウミウ。カワウよりもトレーニングしやすいらしい。
カモなどと違って羽毛がそれほどびっしり生えていないので、時々羽根を広げて乾かしている。
そうしなくても飛べるが、重たいし、体温を奪われるので、陸に上がって乾かすという習性がある。
冬場は外来魚のブラックバスを捕まえてくれるのでありがたいが、夏はコアユも食べてしまう。
口がものすごく大きく開き、70cmもあるウナギを掴まえたりもする。
一匹が一日500gの魚を食べるため、すべてのカワウが食べる量を合わせると、琵琶湖の漁師さんの漁獲高以上になる。
営巣する地域では糞尿に含まれる酸のせいで木を枯らしてしまう。
竹生島は増えすぎたカワウのせいで禿げ山になってしまった。
滋賀県では毎年一万羽のカワウを散弾銃などで駆除している。
しかしこれらのカワウは滋賀県で増えた訳ではなく、全国で住む場所が無くなって集まってきているとのことなので、ちょっと皮肉。滋賀県はカワウの最終処理場か。
「カワウの天敵は何ですか」
「カラスかな」
「カラスが一番強いんですか」
「うん。賢いからね。執念深いし」
【トビ】
カラスと同じで、自然界の掃除屋。
猛禽類だが、あまり狩りはしない。落ちているものを拾う。人が食べている弁当をさらっていったりする。
たまにオオタカが掴まえた獲物を横取りすることもある。トビの方がオオタカより体が大きいため。
近くに港があり、漁師さんが捨てた魚(ブラックバスなど)が流れてくるので、それを目当てに集まってくる。
山ではなく餌場の近くに巣を作る習性があるため、琵琶湖の中州にも巣がある。
毎年巣を大きくしていく習性がある。
カラスとトビはよく戦っている。食べ物や住む場所が一緒のため。カラスはトビの雛をよく食べたりする。カラスの方が賢いので、何羽かのカラスにトビが追い払われることが多い。
【ガン】
冬鳥。つまり冬の間日本で過ごし、春になるとシベリアに移動する。夏のシベリアの湿原は虫が多く、肉食獣も入って来ないため、繁殖には最高の場所。
大きな編隊を組んで移動するが、その最小単位が家族。10くらいの家族が集まって編隊を作る。
夫婦は一生連れ添う。寿命は20年くらいと言われている。生まれて初めて見たものを親と思う習性があり、ついていく。
カモと違って大きな群れで鳴きながら飛んでいくので、昔から季節を春秋の風物詩になっている。童話の「ニルスの冒険」に出てくる。
小林一茶の句
「けふからは 日本の雁ぞ 楽に寝よ」
湖北センターで冬場よく見られるのはオオヒシクイと呼ばれるガンの一種。ガンを家禽化したのがガチョウ。
【マガモ】
冬鳥。日本で冬を過ごす。しかしガンと違って、家族単位で行動しない。一匹ずつ北に飛び去る一方で、南からやってきたカモが琵琶湖で休憩するため、いつ渡りを始めたのかが分かりにくい。
秋には北からばらばらに飛んできて、琵琶湖でペアを作り、春になると連れ添って帰っていく。しかし北国で卵を産むと夫婦関係を解消。子供がある程度育つと親が子供より先に南に向けて旅立ってしまう。子供はその後、自力で日本までやってくる。寿命は10年くらいと言われている。
カルガモとの外見上の違いは、雄の頭が緑色であること。マガモを家禽化したのがアヒル。アヒルとマガモの掛け合わせがアイガモ。最近、マガモとアイガモの交雑によって、日本で繁殖するマガモ(混血)も増えてきている。
マガモやカルガモは陸ガモと呼ばれ、夜行性のため昼間は湖面で生活しているが、夜になると田んぼまでやってきて落ち穂を食べたりする。幸い、米の収穫期の頃は水草で満足していることが多く、田んぼに来るのは冬なので、それほど害鳥扱いされることはない。鴨取り権兵衛。「昔話というのは案外、鳥の習性をうまく捉えていますよ」と館員さん。
陸ガモの仲間は全身を水に潜らせることができないため、水面に尻を突き出して水草を食べている光景がよく観察される。
【カルガモ】
留鳥。日本で繁殖。そのため子連れの姿をよく見かける。雄も雌も地味な茶色。
【キンクロハジロ】
潜水ガモと呼ばれ、潜るのが得意。しかしカワウと違って魚を追いかけることは少なく、湖底の貝などを食べる。そのため、水に潜っても同じ場所から浮き上がってくることが多い。目が金色、体は黒く、横の羽根が白いのでキンクロハジロ。頭の後ろに寝癖のような冠羽が突き出ている。
【コハクチョウ】
湖北町の鳥。冬鳥。オオハクチョウより若干小さい。首が長いのは深い所の水草を食べられるように適応したもの。ガンと同様、家族単位で暮らしている。
【オオバン】
真っ黒の鳥。人間が近づいていってもあまり気にしない。一日中、水草を食べている。
【カイツブリ】
滋賀県の鳥。別名「鳰(にお)」。琵琶湖は昔、「におのうみ」と呼ばれるほど、カイツブリが多かった。しかし、葭原の減少とともに減っていった。
雛を背中に乗せる習性がある。雛も泳げるため、親の背中は休憩所という感じ。雛の大きさは親指くらい。水に潜って小魚・小エビ・貝などを食べる。
カンムリカイツブリは水面で向き合って求愛ダンスをする習性があり、初夏にその光景がよく見られるらしい。
【サギ】
毛が艶のある白であり、綺麗。水に潜ることはなく、足の届く深さの所までしか行かない。
アオサギ(足が長くて白いサギ)は待ち伏せするが、シロサギ系統は自分でこちょこちょ歩いてえさを探したりする。
コサギはアオサギより足が短く、胸からふさふさした白い毛が生えている。
ゴイサギ(青くてずんぐりしたサギ)は夜行性。
【ツバメ】
夏鳥。冬の間は東南アジアにいる。冬鳥の多くがシベリアで繁殖するのに対し、夏鳥は日本で繁殖する。ホトトギスやウグイスも夏鳥。東南アジアから渡ってくる。
水草や貝を食べる冬鳥と違い、夏鳥の多くは虫を食べるため、山でよく見られる。湖北野鳥センターでは観察しにくい。例外は水辺に巣を作るオオヨシキリくらい。
ツバメの寿命は3年から5年くらいと言われている。
「今年もツバメが軒先に巣をかけた」と言ったりするが、別のツバメである可能性が高い。
【ハクセキレイ】
夕方、都市部の特定の街路樹に大量に群がってちゅんちゅん騒がしく鳴いている鳥の群れはハクセキレイではないかという。
集団で一本の木に群がって寝る習性がある。他の鳥と違い、都心の明るい場所でも気にしない。
群れて寝るのは、「目がたくさんあるので、外敵が来たときにすぐ気付けるため」。
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2007年01月02日
鎌倉からの年賀状
年賀状、いろいろな方からいただいたのですが、最近は宛名がほとんどプリンタで印刷されています。
そんな中、毎年見事な筆捌きで宛名を書いてくださるのが和久井さん。
達筆すぎます。
よくこれで届くなぁと、郵便局員さんたちの鑑識眼にも感心します。
郵便番号が三桁の時もちゃんと届いたのでしょうか。
ちなみに、「京都市中京区……手塚太郎様」と書かれています。
新年の挨拶の内容も非常に文化人風で、
「平生は書屋に籠もり雨奇晴好を地でいっています。」
など、一文字ずつ変換しなければ出てこないような熟語を多用した文章が記されています。
大変な読書家の方で、鎌倉にて小さな私設図書館を運営されています。たしか岩波文庫が全冊揃っていたはず。「ライブラリーイン鎌倉」と言って、高校の部活や大学のサークルが合宿で利用することもできました。壁を埋め尽くす岩波文庫に囲まれて勉強会というのは、他ではできない体験かと思います。
「僕が学生の頃は、岩波文庫は全部読まなくちゃならないという雰囲気がありましたが」 というようなことをさらりと言われます。
和久井さんとの出会いは僕が高校生の頃。水泳部に所属していたのですが、全国で合宿に使える宿をまとめた非常に便利な冊子が部室にあり、その最新版をもらいに行ったのがきっかけだったと記憶しています。
もともと新潟の新聞社に勤められていたそうですが、地域の振興と青少年活動の支援を目的に、合宿情報を紹介する会社を設立されたのです。
鎌倉のご自宅では毎年新年会を開かれていて、僕も何度か参加させていただきました。新潟のうまい酒を囲んでの楽しいひととき。
最近は正月にも東京の実家に帰っていないため、新年会に出席できないでいるのですが、また折りを見て遊びに行きたいと思っています。
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2006年08月30日
郡上八幡で盆踊り、川に飛び込み
週末、郡上八幡に行った。
岐阜県を流れる長良川の上流にある小都市。
七月中旬から九月上旬にかけて行われる郡上おどりで非常に有名である。
特にお盆の期間は徹夜踊りと言って、夕方から朝まで盆踊りが続く。
その期間には数万人の観光客が訪れるそうだ。
それ以外の時期にもほぼ二日に一度盆踊りが行われ、合計三十二夜に渡って続けられるという。
A地下バーでマスターをしているaとその友人たちが昨年の夏に行って、非常に面白かったために今年も旅行を企画し、それに同行させてもらった。
金曜の夕方に京都を出て、新快速で米原まで。
そこからまた快速に乗り継ぎ、岐阜から高速バスを使うと、予想外に早く着けてしまう。
実質的な移動時間は三時間半程度。
それにも関わらず、すごく遠くに来たという気がする。
地図で見るととてつもなく山奥にある印象があるが、かなり賑やかな街である。
善光寺というお寺の宿坊に泊めてもらう。
一泊目の晩は盆踊りも無いということで、延々と午前二時頃まで飲み会。
興味深い話をいろいろ聞かせてもらう。
翌日、合掌造りで有名な白川郷を見に行く。郡上八幡から車で一時間ほどの距離。

建物も良かったのだが、個人的には「どぶろく祭りの館」という小さな資料館で飲ませてもらったどぶろくがうまかった。
酸味があって非常においしい。
酵母を人為的に入れない自然発酵で作られているため、製造に四ヶ月かかるのだそうだ。
酒税法か何かの関係で販売することができないので、入館した人にサービスとして飲ませるだけ。
しかし、10月に行われる「どぶろく祭り」では、このどぶろくが一時間飲み放題だそうである。
大学で微生物の研究をしているaが酵母を持って帰りたがっていた。
合掌造りの内部も見学した。江戸時代から続く大規模住宅。
一階に主人一家が暮らし、二階より上には使用人が暮らしていたそうだが、
主人よりも上にいる間は常に頭を下げるように、上の階の天井をわざと低く作ってあるのだとか。
午後、郡上八幡に戻り、ジャミと二人で川に飛び込みに行く。
橋から川への飛び込みは郡上八幡のもうひとつの名物である。
長良川の支流である吉田川に、橋の上からジャンプして飛び込む。
中学生や高校生が度胸試しとして昔から行っていたものだが、近年では外からやってきた観光客も飛び込む。
毎年、仮装飛び込みのコンテストも行われている。
山奥に架かった吊り橋から飛び込む風景を勝手にイメージしていたのだが、実際は町のど真ん中に橋が架けられていて、そこから飛び込む形だった。
吉田川は街の中心部を横切って流れるとはいえ、都心の川と違って、水量は多く、澄んでいる。
水深が浅い所が多く、新橋と学校橋という二つの橋からだけ飛び込めるのだが、「学校橋の方が上級者向け」と宿坊のおばさんが言っていたらしい。学校橋の下は飛び込んでも大丈夫な深い範囲が狭いのだそうだ。
水着になって河原に下り、水に慣れておくことにする。
夕方のためか、水温はそれほど冷たくない。
流れはそれほど速くないが、逆らって泳ぐのは結構大変である。
橋の真下が確かに深いことを確認した上で、水から上がる。
流れの中心から少し離れると浅くなっていて、無茶な飛び方をすると危険だなと感じた。
新橋の上には注意書きが書かれていて、水面までの距離は12メートル、十分ご注意くださいとのこと。
欄干に寄りかかっていたおじさんおばさんに、どのへんから飛び込むんですかねと聞いてみると、
「地元の者じゃないんで……」と首をすくめる。
ちょうどその時、自転車に乗った小学校高学年くらいの男の子たちが橋の上を通りがかった。
「ここから飛び込むの?」と聞いてみる。
「うん。このへん」
橋の中央あたりの欄干を指さす。
「白い泡が流れている所が一番深いから」
なるほど。たしかに流れの中央には白い泡が漂っている。速い水流で泡が生じているわけだ。
「でも、気をつけないと渦に巻き込まれる」と男の子。
「渦に巻き込まれるとどうなるの?」
「死ぬ」
はっきり宣告してくれた。
僕とジャミは顔を見合わせ、
「行っとくか」
欄干の上に立った。
河原から見上げた時には簡単に飛べそうに思ったのだが、欄干の上に立つと、ちょうど三階建てのビルの屋上の手すりの上に立っているような感覚。
怖い。
頭では大丈夫と分かっていても、体がやめろと言っている。
この感覚は面白いものだ。リアルな三次元グラフィックスを駆使したゲームに足りないものがあるとしたら、現実に無茶をしている時に体が本能的に感じる恐怖感ではないか。
誰も見ていなかったら、帰ったかも知れない。
だが、ここまで来て引くわけにはいかなかった。
もしかして死ぬかもと思って、何か言い残しておくことは無いかと考えたが、特に無かったので、遠くの山河を眺めた後、身投げした。
体が浮遊する。
何とも形容しがたい、自由落下の感覚。
無重力って、実はすごく気持ち悪いものである。
意識が途切れるには長すぎる滞空時間の後、水に打ち付けられた。数メートル沈んで、耳がとても痛い。
流れに飲まれることなく、水面に浮き上がった。
すぐに河原の大きな岩に這い上がる。
耳が痛い以外は、まったく問題なし。
もう一度だけ飛び込み、夕飯の時刻までに宿坊に戻った。
食事は葉南蛮という唐辛子の葉の佃煮が美味。その他、このあたりの名物という辛子を中に詰めた豆腐など。
日が暮れて、郡上踊りの時刻がやってきた。
今夜は八幡神社という所で行われるとのこと。
毎夜、場所を変えつつ行われる。それが三十二夜も続く理由である。
人の流れに乗って川沿いの道を歩く。
盆踊りの曲が流れてくる。
神社の境内ではすごい数の人々がやぐらを取り囲んでいた。
少しずつ回転していく円の中に加わって、とりあえずステップだけでも真似しようとする。
やがて、繰り返しの周期がかなり短いことに気付く。
これなら憶えられそうである。
何分かすると別の曲に変わる。全部で十種類の踊りがあるらしい。
「春駒(はるこま)」という軽快な曲、動きが早いのでとても真似できないと思っていたが、
近くで踊っているおじさんが「これは簡単だから」と話しかけてくる。
最初は何を言っているのだと思ったが、実際、憶えてしまうと非常に簡単である。
十くらいのステップを繰り返しているだけ。
それぞれの動作が単純で、誰でも簡単に加わることができる。
さらに、そのような踊りが何種類もあって飽きさせないのが郡上踊りが成功している理由ではないかと思った。
次第に余裕が出てきて、周囲を見回してみると、数百人の参加者がやぐらを囲みながら、一斉に踊る様は壮観である。
郡上踊りでもっとも代表的と言われている「かわさき」は手の動きがパラパラっぽかった。
「やっちく」の単純でテンポの良い動作、「げんげんばらばら」の動きの非対称性が面白い。
そもそも郡上おどりは江戸時代に藩主が士農工商の融和のために始めたものだという。
賢い君主もいたものだ。
踊り続けているとかなり体力を消耗して、しばらく周囲をぶらぶら散歩した。
やぐらを囲まず、道路で小さな輪を作って踊っているグループがいくつかあった。
小学生や中学生の女の子の一団がはっぴを来て踊っていたが、途中でくるりと回転していたり、踊りのアレンジが通常と違った。
夜十一時頃まで踊って、解散になった。
へとへとだった。
徹夜踊りというのはいったいどういう神経なのだろう。
宿坊に戻ってすぐに寝てしまう。
翌朝、朝食の後に再び川に飛び込みに行く。
今回は男はほぼ全員が飛び込んだ。それでも「泳げない」とか言い出す者もいて、それは仕方ない。
最初、aが欄干の上であまりの高さに恐れおののき、「これはやばい」などとさんざん引っ張ったため、S野くんがあっさり「僕が行きます」と言って先に飛び込んでいった。
その後、皆で順番に飛び込む。
僕はいろいろなバリエーションを試そうと思い、背中を欄干の外に向けながら飛び降りたりしたのだが、体が傾いていたために腹と胸を強く水面に打ち付けてしまい、非常に痛かった。体を垂直にしていないと、衝撃がかなり強い。
僕が何度目かの飛び込みをしようとしている時、結構美人な地元のおばさんが通りがかり、次々と川に飛び込んでいく僕らを見てしみじみと語り出した。
「三年前にひとり死んでね。高校生だったかな。ご両親は悲しかったでしょうね。病気で何年もかかって死ぬとかじゃなくて。朝、元気に出かけていって、それで死んで帰ってきたら、悲しいよね」
橋からの飛び込みはその後一年くらい禁止されていたらしいが、その後、再開されて現在に至る。
「中止になった後で、また再開された過程がすごく気になるんだけど」とaが言っていた。たしかに。
午前十時、いったん宿坊に戻って荷物をまとめた後、学校橋からの飛び込みにも挑戦。
橋の上にいた地元のおじさんに聞くと、学校橋の方が新橋よりも3メートルほど低いとか。実際、欄干に立った時に本能的に感じる恐怖感が若干小さいような気がする。
「こっちは低いから大丈夫ですよ。みんな、このポールに掴まって飛び込んでいますね」
飛び降りる。
こちらも無事に着水。
だが、驚いたことに、新橋の下よりもずっと水深が浅い。川に落ちた勢いで深く潜ると、足が川底についてしまう。ぶつかるというより触れるという程度だが、これはたしかに危険である。渇水時にはかなり危ないのではないか。
昼頃、食堂が混んでいたために新橋の近くをぶらぶらしていると、河原からおんぶされて上がってきた人がいた。背負う方も背負われる方も水着。
どうやら負傷者のようである。高校生か大学生くらいの年齢か。腰を折り曲げた状態のまま、道路脇のベンチに座らされていた。まっすぐに伸ばせないようである。前屈みの状態のまま、青ざめた顔をしている。
「大丈夫ですか? どうしたんです?」
「水に落ちた時の衝撃で……」
人が集まってきて、「横になったら?」などと話しかけるが、
「いや、腰を動かせないんです……」と顔をしかめる。
「救急車を呼ぼう」と近くにいたおじさんが言う。
「すぐに来るから」
「痛くない?」
みんなで励ましている。
僕は「ぎっくり腰ですか」という言葉が喉まで出かっていたが、ちょっと言えなかった。
「回転して入ったの?」などとまわりの人に聞いているおばさんがいたが、彼は普通に足から入ったらしい。
数分もしないうちに救急車が来て、彼はストレッチャーに乗せられて運ばれていった。
僕らは川沿いの新橋亭という店で昼食を済ませ、午後に郡上八幡を後にした。
体験型の観光がいろいろできて、とても楽しかった。
郡上八幡、かなり面白い場所である。
Posted by taro at 23:38 | Comments (5)
2006年07月12日
忠犬タマ公
学会で新潟に来ました。
有名な「忠犬タマ公」の像です。
タマの叫びが聞こえてきます。
Posted by taro at 18:16 | Comments (4)
2006年05月16日
神戸ファッション美術館と蔵巡り
今年も合同ハイキングを企画したが、雨により中止になってしまった。
二年連続で中止。ちょっとショック。
六甲山に登るつもりでいたので、その近所で代わりに行ける場所を探し、午前中は六甲アイランドにある神戸ファッション美術館、午後は灘で蔵巡り、夕方から尼崎駅前のあま湯ハウスという天然温泉で入浴し、打ち上げという流れになった。
最初に行った神戸ファッション美術館、庶民には理解できない最先端モードの服がたくさん並んでいるのかと思いきや、けっこうまじめに服飾の歴史を解説していて面白かった。
十八世紀末から現代にかけて、主に西欧で流行した服装がマネキンに着せて並べられている。
十九世紀のイギリスというと、女性の服装はレモン絞りのような膨らんだスカートというイメージがあるが、あれはクリノリン・ドレスといって、流行したのは十九世紀後半になってからだとか。
それに先立つロマン主義の時代には、女性は青白く病的で従順であることが魅力とされていて、それを強調するために二の腕の部分を大きく膨らませたドレスが流行したという。
その前にはエンパイア・スタイルというのが流行していて、古代ローマ風に白い布を基調としたドレス。
フランス革命の前には絹が一番好まれていたそうだが、この時代は木綿に人気が移ったとか。
ポンペイの遺跡が発掘されたことが、この流行が始まったひとつのきっかけだそうだ。
それより前は、豪華絢爛な宮廷衣装である。ベルサイユのばらである。
西洋以外の服装に関する解説もそこそこあって、インド人がサリーを着るのは、ヒンズー教では服の縫い目に魔が宿ると考え、一枚布を好んだからなのだそうである。
企画展では、二十世紀を代表する服飾デザイナーであるシャネル・ヴィオネ・ディオールの三人の作品が展示されていた。
面白かったのは、二十世紀前半、アメリカはヨーロッパのブランドのコピー製品の一大生産地だったという話。
現在、中国で生産される模倣品を取り締まろうと腐心しているアメリカも、かつては模倣品大国だったのである。
多くのデザイナーはアメリカ製の模倣品に悩まされていたのだが、ココ・シャネルは「良いものが真似されるのは当然」とか言って、気にしなかったという。
展示の解説いわく、「そこに彼女の哲学がうかがえる」のだそうだ。
美術館見学の後は、六甲ライナーで南魚崎まで行って、蔵巡り。
菊正宗・浜福鶴・白鶴、の順で三つの蔵を訪ねた。
菊正宗のパンフレットの表紙には、
「生酛(きもと)づくりの心を今に伝える」
と書かれている。それが菊正宗の売りらしい。
微生物による腐敗を防ぐために、昔から醸造中の酒は乳酸菌が作り出す乳酸によって酸性に保たれていた。
現在では速醸酛といって、工業的に作られた乳酸と酵母を一緒に入れて発酵させるのが一般的のようだが、菊正宗では今も乳酸菌から乳酸を作り出している。
二週間も余計に時間が掛かるが、こちらの方法を使った方が酵母が長生きするとか。
生酛の中に含まれているのは、ラクトバチラス・サケという、その名も酒に棲んでいそうな乳酸菌である。
乳酸菌の種類は非常に多様のようだが、これは酒で主に見つかる乳酸菌なのだろう。
菊正宗も白鶴も、江戸時代を再現した蔵の様子を展示している。
大きな樽の上に、はちまきを締めた職人のマネキンが立っていたり。
ところが浜福鶴の蔵だけ、現在の工場の姿を展示している。
金属製の浄水槽とかタンクとかポンプとかが並んでいる。
正直に見せているのだろうけど、見に来ている人は少なかった。
蔵巡りのあと、尼崎に移動。
駅前にある「あま湯ハウス」というスーパー銭湯のような天然温泉で入浴した。
地下1,300mからくみ上げているらしい。強塩性の湯で、有馬温泉に似ているとか。
団体割引で1200円になったものの、通常だと1900円。高い。
だがそれだけ力を入れていて、七種類くらいの風呂がある。
体中に塩を塗りつけてサウナに入る「塩サウナ」は面白かった。
同じ建物に居酒屋が併設されていて、ここで打ち上げ。
NICTで研究員をされているN村さんはかなりの酒好きのようだが、蔵巡りには来ておらず、残念そうに、
「僕、浜福鶴の酒が好きなんですよ」と言っていた。
現代的な工場をそのまま展示していた蔵である。
言われてみると、試飲がおいしかったような気もする。
Posted by taro at 23:21 | Comments (0)
2006年04月24日
ヨーロッパ料理店、つぶれてました。
以前から気になっていた神戸元町駅前にある「ヨーロッパ料理」の店、ドネツクKOBE。
コース料理を頼むと語学レッスンがついてくるという画期的なサービスを展開している店だったのですが、先日、神戸の近くまで行ったついでに確認してみると、つぶれてました。
残念。
看板だけ残ってました。
国旗がいっぱいです。
いつか、別の場所で再開してくれることを祈るばかりです。
Posted by taro at 23:45 | Comments (0)
2005年11月18日
四国でお遍路さんを接待する。(土佐東寺庵訪問記) 前半
京都の東寺の横に、東寺庵という安宿がある。
一泊二千二百円。相部屋、風呂無し、朝食付き。
アジアの大都市には必ずこういったバックパッカー向けの安宿があるが、実は日本にも結構存在している。観光客の多い京都には特に多いが、その中でもここ、東寺庵は宿泊者間の交流が盛んで、様々な国から来た旅行者や地元の若者が出入りし、楽しい場所である。
東寺庵のオーナーである蜷川さんは京都駅のすぐ南に広い土地を持ち、家賃収入で暮らしている財産家であるが、その有り余る財産を使って変わったことをするのが好きな奇人である。蜷川さんに言わせると、東寺庵は彼の「時空間芸術」というジャンルの作品らしい。
僕は五年ほど前に蜷川さんが趣味で選挙活動していたのに出くわし、一日だけ手伝わせてもらって以来の付き合いである。
最近、東寺庵を訪ねると、スタッフである龍馬くんから、高知にできた東寺庵の支店の話を聞かされた。四国八十八ヶ所巡りの道沿いで、お遍路さんを接待しているという。
「お遍路さんってゆうのはつまり、肉親と死別したり、深い悩みがあったりして、四国をまわってる人やね。白装束を着て、同行二人、つまり弘法大師と一緒に長い道のりを歩いている。先生はそういうお遍路さんたちを手助けしたいってことで、土佐東寺庵を建てたわけ」
龍馬くんは四国の高松出身、現在は東京の大学に通う学生のはずだが、いつも京都にいる。授業に出ている気配はまったくなく、東寺庵が住居兼、職場のようになっている。もともと安宿という空間が好きだったらしく、大学進学で上京した際、下宿を借りる代わりに安宿に寝泊まりし、そこから学校に通っていたそうだ。
そういう宿の代金はだいたい一泊二千円前後。つまり一ヶ月なら六万円程度。東京の家賃の相場とそれほど変わらない上、知り合いもできやすく、考えてみればいくつかのメリットもあるのだが、大学に入ってすぐにそういう生活を始めてしまうというのは、なかなかの変人ではないかと僕は思う。
そんな龍馬くんが「先生」と呼ぶ人は、蜷川さんである。
「八十八ヶ所には険しい道もあってやね。お遍路さんは皆、行き倒れになっても葬式を出してもらえるだけのお金を肌身離さず持ち歩いてる。つまり、死を見つめながら歩いているゆうことやね……」
龍馬くんの話は若干オーバーなところものだが、聞いているうちに、いつしか興味を持たされてしまう。なかなかのストーリーテラーである。
最近はバスや車、あるいはタクシーでまわったりするお遍路さんも多いようだが、自分の足だけを頼りに四国を一周する人たちもいて、彼らは特別に「歩き遍路」と呼ばれている。
彼らを接待するために、四国には「ご接待所」と呼ばれる場所があちこちにあった。地元の有力者や篤志家が無償で食事や宿泊施設を提供していたそうだ。ところが残念なことに、そういった場所が最近著しく減ってきている。さらに追い打ちをかけるように、NHKが数年前にご接待所を全国ネットで紹介したため、日本中のホームレスが四国に集まってきてしまい、接待所は激減したそうだ。
そんな状況にあって、蜷川さんたちは土佐東寺庵を設立した。接待所が無くなりつつある今こそ、そういった場所が求められるというのである。
そもそも東寺庵は四国とは少なからぬ縁がある。
名前の由来である東寺は、弘法大師が発展させたお寺である。蜷川さんの家も東寺と縁が深く、室町時代には東寺の財産を管理していたこともあるとか。
そしてお遍路さんが歩く道、四国八十八ヶ所を開いたのもまた、四国出身である空海であった。
さらに蜷川さんに言わせると、空海は「元祖バックパッカー」なのだそうだ。何かを求めて旅を続けるというのはまさしくバックパッカーそのもの。たとえ時代は違えども、精神は同じなのだそうだ。
そんなわけで、四国八十八ヶ所沿いに東寺庵の別館を作り、お遍路さんをもてなすというのは蜷川さんの長年の夢だったらしい。その夢がようやく実現したというわけだ。
東寺庵に行くたびにその話を繰り返し聞かされていたため、僕も若干興味を持たされてしまった。
かといって四国に行く機会など長らく無かったのだが、この夏、研究室の合宿が小豆島で行われたため、結構接近した。
この機会を逃したら二度と行くことはないかも知れないと思い、足を伸ばすことにした。
小豆島にて研究室の皆さんと別れ、フェリーに乗って高松に向かう。
再開発の進む高松港から列車に乗り、一路、南へ。
想像していたより四国は広く、半日がかりの移動になってしまった。
瀬戸内の浜辺を走り金比羅さんの麓を抜け、大歩危小歩危の渓谷を越え、高知駅前の寿司屋で鰹の巻き寿司を食い、土佐くろしお鉄道の起点である窪川という駅に着いた時には、すでに夜の九時をまわっていた。
土佐くろしお鉄道は昔は国鉄の路線だったのだが、分割民営化後に切り離され、今は独立した株式会社として運営されている。四国の突端に突き出していて、いかにも経営の苦しそうな路線である。まるでとかげが尻尾を切るように、JRは窪川より先の路線を切り捨ててしまったわけだ。
駅前の商店街はがらんとしている。寂しい駅だ。
参考のため、これから先に出てくる駅の名前を書いておく。東から順に、高知・窪川・上川口・古津賀・中村という順に並んでいる。中村の南には、四国最南端の足摺岬がある。中村市は最近、四万十市に名称を変えた。日本最後の清流、四万十川の河口を抱く町として有名である。
土佐くろしお鉄道の改札に向かうと、階段を下りたところに作務衣を着た見覚えのある中年男性が立っていて、「よぉ」と声をかけられた。
ちょっと驚いた。
東寺庵のオーナー、蜷川さんであった。
「何してるんですか、こんなところで」
「今日来るっていうから、待ってたんだ」
実は、直前まで行くということを決めていなくて、小豆島から昼頃に電話を入れただけなのだが、駅まで迎えに来てくれるとは。
それほど歓迎されているとは思わなかった。
「すいません、わざわざ迎えに来てもらってしまって……」
「今から京都に帰るんだけどね」
迎えに来たのではなく、窪川駅発の夜行バスに乗って京都に帰るところだという。
それでも僕と会えるよう、早めに来てくれていたそうだ。
蜷川さんはいつも東寺庵で見かけるのと同じ、薄青の作務衣を着ている。駅の構内で見ると、かなり怪しげだ。
列車の発車まで少し時間があったので、連れだって駅舎を出た。
一応、商店街のようなものはあるが、一軒も営業しておらず、明かりは街灯の光だけである。
「窪川も寂しくなったねー。三年前はこんなじゃなかった」
腕を組みながら、蜷川さんはつぶやく。
「三年前からここに来ていたんですか」
「うん」
典型的なシャッター商店街。
今まで感じなかった心細さが、次第に僕の心を捕え始める。
「列車、もうじき出発するんじゃないか。乗っておこうか」
蜷川さんが言って、僕らは土佐くろしお鉄道に乗り込んだ。出発の時刻まで、僕と喋るつもりのようである。
「今、土佐東寺庵には誰かいるんですよね」
「それは大丈夫。龍馬くんもいるし」
台風の接近で一時的に京都に退避していたらしいが、数日前に戻ってきたとのこと。
現在、龍馬くんの他にも何人か泊まっているらしい。
「駅からはどうやって行ったらいいんですか」
「道沿いに歩けばわかるよ。砂浜の真ん中に、ぽつんとあるから」
「砂浜の真ん中にぽつんとですか」
「朝起きたら感動するよ。こんなところにあるのかーって」
今のところお遍路さんを泊めることはまだ行っていなくて、昼間に接待をしているだけだそうだ。宿泊所として機能させるためにはたくさんのスタッフが必要で、簡単には実現できないようである。
「周辺の見所は何ですか」
「海が見えるよ。それから鯨」
「鯨は沖に出ないと見えないでしょう」
「いや、見えるんだって」蜷川さんは譲らない。
「お遍路さんのルートを歩いてみようかな。一番近い札所までどれくらいあるんです?」
「そこにもあるよ」と言って、駅の外を指さす。
「窪川に? 土佐東寺庵からはちょっと遠くないですか」
列車で四十分ほどの距離だ。
「遠くないよ。みんな歩いてくるんだって。一日がかりで」
「窪川と土佐東寺庵の間には札所は無いんですか」
「無いね」
「じゃぁ、反対側は?」
「足摺岬の向こうにある」
「めちゃめちゃ遠いじゃないですか」
「歩いたら三日がかりだね」
「すごすぎ」
「歩けるよ。やってみ。学生とか、よく歩いてるよ」
そりゃ、歩ける人もいるかも知れないが、三日間もひたすら歩き続けるというのは、体力とは別な力が必要とされるような気がする。蜷川さんは最近、修験道にはまっているとかで、奈良の大峰山を三日がかりで踏破していたりする。そんな感覚で説明されても、こちらはついていけない。
「そうすると、窪川と足摺岬の間にはお遍路さん用の宿がたくさんあるってことですか」
「いや、無い」
「それじゃお遍路さんはどこに泊まるんです?」
「そのへんの海辺で野宿よ」
「野宿!」
「歩き遍路はみんなそうだぜ」
お遍路さん、思っていたより、根性が必要とされるようだ。そんな話を聞かされると、ご接待にも身が入るというものだ。
「それじゃ、楽しんできてな」
蜷川さんは僕の肩をポンと叩いて、車両から出て行った。
列車は九時半に窪川駅を発った。
ワンマンカーで、乗客は僕ひとり。運転手さんは終始無言。
途中から四人連れのおじさんたちが乗り込んできて賑やかになったものの、真っ暗な闇夜の中を走っていくことには変わりない。
四十分走って、土佐上川口駅に着いた。無人駅である。
照明はホームにひとつだけ。
駅に面した斜面には墓場があったりする。
蛙が騒がしく鳴いている。
電灯から少し離れると、自分の足下すら見えない。
雨ざらしの階段を降りた。
幸い、畦道に沿って民家が並んでいた。
とにかく人が暮らしていることを知って、胸を撫で下ろした。
居間にテレビがついていたりするのが見えると、なぜか安心する。
二分ほど歩いて、国道に出た。
トラックが音を立てて走り抜けていく。
予想以上の通行量に驚かされる。
僕の他には歩行者などいないため、車の速度がものすごく速い。その横を小さくなりながら歩いた。
川を渡った。長さ五十メートルほどの橋が架けられた、細い川である。
蜷川さんがこの場所を土佐東寺庵の場所として選んだことには、川の名前も影響していそうだ。なにしろ、「蜷川」という名前の川なのだ。単なる偶然か、あるいはこのあたりに昔、京都の蜷川家の領地でもあったのだろうか。よく分からない。
石材置き場のような敷地の前で、犬が吠えまくっていた。
そろそろ心細くなって、土佐東寺庵に電話をかけた。龍馬くんが出た。
「今、国道を歩いてるんだけど。どのへん?」
「そのまままっすぐ歩いてくると、道に沿って赤い旗がいっぱい立ってるわ。南無大師遍照金剛とか、いろいろ書いてある」
波の音がすぐ近くで聞こえる。
道の先は海だ。
カーブを曲がると、人影が見えた。
「手塚くん、こっちやこっちや」
言いながら、人影は近づいてくる。
街灯に照らされた龍馬くんは、蜷川さんと同様、作務衣姿だった。
「よぉ来たねぇ。これが土佐東寺庵や」自分が出てきた建物を指さして言う。
外見はごく普通の民家であった。
僕が勝手に想像していたお遍路さん歓迎専用施設とは、だいぶ違う。
蜷川さんが言っていたような、砂浜の真ん中にぽつんと立つ小屋ではもちろんない。
コンクリート塀には二十本近い幟がくくりつけられている。
赤や青の幟に白抜きされた、お経のような文句。
南無大師遍照金剛。あるいは南無観世音菩薩。
「分かりやすいやろ」
「ちょっと驚いた。すごいところにあるんだね」
僕が何よりびっくりしたのは、接待所が国道に直接面していることだ。車がものすごい速度で軒先を走り抜けていく。見ているだけでハラハラするくらいだ。こんな場所で落ち着いて接待などできるのだろうか。
「もっと静かなところかと思ってた」
「いや、先生はよく考えてこの場所にしたんや。もう三年も前から計画してるしな」
蜷川さんの分析によれば、この場所は山と海に挟まれて国道一本しか走っていないため、歩き遍路は必ずこの場所を通る。だから、確実に接待できるのだ。町の中だと様々なルートがあるので、歩き遍路が接待所に気づいてくれるとは限らない。ここなら歩き遍路が海の中や山の中を歩かない限り、必ず目の前を歩いていくことになる。逆に、バス遍路であれば、ぴゅっと通り過ぎてしまう場所である。
蜷川さんはバス遍路には興味が無いため、あえてこの場所に接待所を作ったのだという。
明るく照らし出された大きな机の上には飴やらスナック菓子やら。大量のお菓子が所狭しと積まれている。
「食べていいよ」と龍馬くん。
夜中に食べるのは良くないと思いつつ、さっそくつまんでしまう。
接待所は夜の間はシャッターを閉められるようになっているようだが、僕の訪問を待っていたためか、国道に向かって開放されていた。
その隣の大師堂は、弘法大師を奉る部屋である。
四畳半ほどの部屋に仏具が所狭しと並べられ、壁には四国の地図や東寺のポスターが貼られている。
「ここで護摩を焚くと、お遍路さんはすごく喜ばはんねん」と龍馬くん。「大峰山で高ぉ金払て護摩焚いてもらうより、こっちの方がずっと嬉しいって。ここは儲けやないからねぇ」
自慢げに言う。
土佐東寺庵のスタッフには京都のお寺で然るべき修行をしたお坊さんもいるらしく、接待を手伝ってくれているそうだ。蜷川さんから土佐東寺庵の住職になるよう強く薦められているのだが、断っているという。
僕らは接待所の畳に腰を下ろした。
「いつもお菓子でもてなしているわけ?」
「そやね。だけどここは港も近いし、魚を買ってきてもてなすこともある」
接待所とその周辺の建物を案内してもらった。国道沿いの細長い敷地に建物が並んでいる。
「ここが接待所で、隣が大師堂。奥がスタッフ用の住居。そっちが倉庫」
東から順に、風呂とトイレの建物・スタッフ用住居・大師堂・接待所・来客用寝室・倉庫という順序で並んでいる。大師堂と接待所と来客用寝室はひと繋がりの建物で、おそらく大きな納屋か何かを三つに区分したものではないかと思われる。
僕が泊まるのは来客用寝室で、接待所とは薄い板一枚で仕切られている。土間から一段高くなった床の上にはゴザが敷かれ、押入の中には布団が何組かあった。
天井が低く、まともに立ったら髪の毛が触れてしまう。
一方、龍馬くんたちが泊まっているスタッフ用住居はごく普通の民家である。一階には台所兼食材置き場と、畳敷きの居間の二部屋がある。
その居間で、現在のスタッフを紹介された。四十代くらいの中年男性と、二十代くらいの女の子。
「はじめまして」
「あ、どーも」
「こんにちわ」
中年のおじさんは北国さんといって、岩手からやってきたそうだ。学生の頃、お兄様が蜷川さんの同級生だったらしい。北国さんはお兄さんと同じ建物に下宿していたため、蜷川さんが兄を訪ねてきて不在だった時には、その向かいにある北国さんの部屋に来て、だべっていたりしていたそうだ。蜷川さんとはもう二十年以上続く仲ということになる。
女の子は帆保江ちゃんといって、東京の吉祥寺の出身。現在の仕事は保母さん。二十三才。京都の東寺庵に滞在していたところ、蜷川さんに「高知に行かない」とスカウトされ、来てしまったという。いつの間にかこの場所が気に入って、いつか八十八ヶ所巡りをしてみたいとまで思っているそうだ。
二人が来たとりあえずの目的は、土佐東寺庵の建物にペンキ塗りをすること。外での仕事は北国さんが行い、帆保江ちゃんは炊き出しをするという。
まだ夕食中だったので、混ぜてもらう。
刺身、ご飯、それからみそ汁。刺身は非常にうまい。近所で買ってきたのだという。
「今朝、お遍路さんを接待したんですよ」と帆保江ちゃんが言う。「そのあと何度か中村まで買い物に出かけたんですけど。そのたびにその人とすれ違って。うわー、まーだ歩いてる!とか思って」
道がひとつしかないので、車もお遍路さんも同じところを通る。中村までは車で三十分の距離だから、歩いたら半日かかるだろう。帆保江ちゃんは車というものの便利さを実感しただろうか。
食後、北国さんが部屋の奥から大きなプラスチック容器入りの焼酎を持ち出してきた。酒好きのようである。それでも、少し酒が入ると顔が真っ赤になった。
お遍路さんを巡るいろいろな話を聞かせてもらった。
今まで彼らが接待したお遍路さんのうち、半分くらいが肉親との死別、もう半分が会社を定年退職し、思うところあって歩いている人だという。その他、会社を倒産させてしまい、懺悔の気持ちで歩いている人もいたそうだ。
さらにすごいのは、死のうとして来ていた人の話。
スタッフのひとりである桃本さんが足摺岬のあたりをドライブしていたところ、ぼろぼろの服を着て歩いている若い男性がとぼとぼ歩いていた。
「何してんのや」と聞いたら、「死のうとしている」と答えるので、慌てて土佐東寺庵に連れてきて、スタッフとして働かせているうちに、彼は次第に生き甲斐を見出せてきたらしく、無事に実家に帰っていったという。その後、彼のお姉さんから土佐東寺庵宛でお礼の手紙が届いたという。
その他、警察から逃げている犯罪者がいるという話とか、何度もまわりつづけているうちに、精神的に四国から出れなくなってしまう人がいるとか。これらは直接出会ったわけではなく、四国のお遍路さん通の間で語り継がれている話らしい。都市伝説ならぬ田舎伝説である。
北国さんが突然、声のトーンを落として言った。
「四国に来てさ、ここは生きてる世界じゃないな、って思ったねぇ」
「生きてる世界じゃない?」
「ああ、それは僕も思いました」と龍馬くんが賛同する。
「どういう意味ですかそれは」
「ほら、一生に一度はお伊勢さんに行きたいって言うでしょ。東北の人間もね、お伊勢さんには行きたいって言う。だっけど、お遍路なんて行きたかねぇって言うよ。なんか暗い感じがあるねーぇ」
「そうなんですか。逆に僕は青森の恐山とか、怖い場所というイメージがありますけど。あれは怖くないんですか」
「あっれは怖いことなんかねーぇもん。恐山は神聖な場所だよ」
僕が首を傾げると、龍馬くんが代わりに応じた。
「たしかに、四国ってのは死に関連するイメージがありますね。お遍路さんが白装束を来ているのは、いつでも死ぬ覚悟ができているという意思表示ですしね」
ところが逆に、吉祥寺生まれの帆保江ちゃんのおばあちゃんに言わせると、四国のイメージは明るい。帆保江ちゃんはいろいろ思い悩むところがあって保母さんの仕事を休み、京都まで旅に出てきたそうだが、東寺庵と出会い、蜷川さんに誘われて四国まで来ることになってしまった。その話をおばあちゃんに聞かせたところ、「それは転機に立った人が行くところだよ」と背中を押されたという。
「四国に行こうって考える時点で、それは神様に守ってもらっている。四国は神様がいる方向だからね。逆に、富士の樹海に行ってしまう人は、神様に守られていないんだよ。そっちは神様がいないから」などと言われたそうだ。
東京の吉祥寺では、四国は高く評価されているようである。
「お遍路さんって、地元の人は少ないんでしょうか」僕はふと思って聞いた。
「低いだろうね。知り合いとかと会ってしまうかも知れんし」
「龍馬くんは高松の出身だよね。お遍路さんとか、する気ある?」
「無いなぁ。絶対に知り合いに会うと思うしな」
四国話はまだまだ続きそうだったが、翌朝は早くに起きるつもりだったので、午前一時頃、お暇を願って寝室に移動した。
スタッフ用住居から接待所に向かうのにも、車がびゅんびゅん行き交う国道の脇を歩かなくてはならない。
夜中、トイレに行こうとして轢かれたりしたら、お話にもならない。
布団の上に寝転がって眠ろうとしたものの、窓のすぐ外が国道のため、夜中でも車がものすごい速度で走りすぎていく。蒸し暑いからといって窓を開けてしまえば、僕の姿は国道にさらされているようなもので、防犯対策も何もあったものじゃない。さらに、部屋のすぐ前を二トントラックが猛烈な速度で走ってたびに、びくりとしてしまう。風圧も感じる。窓がガタガタ揺れる。そのたびに驚かされて、とてもじゃないが寝られたもんじゃない。
それでも半眠りでうとうとしているうちに、昼間の疲れからか、やがて眠っていたようだ。
朝。大きめの話し声で目が覚めた。軒先で誰かが喋っているのが聞こえる。
外はもう明るい。しかし、小雨が降り続いているため、それほど爽快感はない。
家の前を車が水しぶきをあげて走り抜けた。のどかな海辺の朝と呼ぶにはほど遠い。
蜷川さんの昨夜の説明を思い出す。いったいこれのどこが「砂浜の真ん中にぽつり」なのだ。
窓の外を眺めていると、坊主頭のおじさんが目の前を歩いて行くのが見えた。先ほどの話し声の主だろう。
僕は寝ぼけ顔をこすって寝室を出て、道路に面した蛇口で顔を洗った。
海は灰色の空の下でどんよりと広がっている。
坊主頭のおじさんは接待所で龍馬くんと話をしていた。
年齢は六十代くらいだろうか。角張った顔は頑固そうな印象を与える。「大師堂で服とか干したらいかんよ」と龍馬くんに注意している。実はその服は僕が昨夜、干したのである。屋外では車の排ガスで真っ黒になりそうだったので、中に吊しておいたのだ。おじさんに謝って、別の場所に移動させた。
おじさんは胡麻塩さんといって、お遍路をしつつ、接待所の手伝いなどをして暮らしている人らしい。
「阿波池田まで行っとったんじゃけど、車のご接待を受けて。こちらに戻ってくるのにもう少し時間がかかるはずじゃったけど、早く着いてしまった」
「車のご接待?」
「車に乗せてもらったということ」
なるほど。ヒッチハイクか。お遍路さん用語では「車のご接待」と呼ぶらしい。
「昨日は窪川の岩本寺まで行って、ガレージ泊めてもらって。電話かけようかと思ったけど、電話代がなかったから、直接来ちゃえと思って朝歩いてきた。それでみんなまだ寝てたから、ここで待ってたんですよ」
もちろん、携帯など持っていないわけである。
「ちょっと読経するわ」と言って、太子堂に入り、お香を焚いた。チン、と鐘を鳴らし、低い声で朗々とお経を唱え始めた。
僕らはスタッフ用住居にて、帆保江ちゃんが作ってくれた朝食を食す。ご飯とみそ汁と一品。
食後、胡麻塩さんがお経を唱えている横で、「庵の思い出」というノートをめくる。ぱらぱらと読んでいくと、一日三件ずつくらい書き込みがある。どれもお遍路さんたちが書き込んでいったものである。一部抜粋すると、たとえばこんな感じだ。
8/24 足が痛くて痛くて、たまらず、お世話になりました。ほんとうに助かりました。ありがとうございました。 東京都新宿区 M
8/18 ほんの少しのつもりが、小一時間も居てしまいました。今日が自分の誕生日だと知った時はショックでした。お茶がたいへんおいしく、何度もおかわりしてしまいました。どうもごちそうさまでした。 茨城 A
8/28 いろいろなお接待ありがとうございます。これを糧にまた歩きます。 愛知県 K
8/4 おいしい焼きソバごちそう様です。二日ぶりにまともな食事ができたかな。これでまたがんばれそう。あ、もう五時だ。色々ありがとうございます。 東京都杉並区 N
土佐東寺庵、かなりの数のお遍路さんに感謝されているようである。
接待所の外に出て、建物の写真を撮影した。
コンクリートの護岸に立って、海を眺める。
岩場に打ち寄せる波は荒く、空は薄曇り。
穏やかなイメージのある太平洋も、天候によっては荒々しい牙を剥くようだ。
海から山に目を移すと、土佐東寺庵の裏手は小高い丘に連なっていて、建物のすぐ後ろまで森が迫り出している。山海に挟まれた狭い空間を、国道が窮屈そうに走り抜けている。
おそらく何百年も昔からお遍路さんはこの道を歩いてきたのだろう。国道が作られる前はもっと細い道だったのではないか。あるいは道などなくて、それこそ岩場にへばりつくようにして歩かなければならない、難所のひとつだったのではないだろうか。
国道の東の方から、雨の中、大きなバックパックを背負った若いお兄さんが歩いてくるのが見えた。片手に杖、もう片方の手で傘を差しながら、国道を歩いてくる。
地元の人かなと思って見ていると、接待所から出てきた龍馬くんに声をかけられ、吸い寄せられるように接待所に入っていった。
僕もすぐさま接待所に戻った。
一人目のお遍路さんの登場である。
菓子に囲まれた畳に腰を下ろし、「いやー、ありがたいです」と礼を言って、龍馬くんに渡されたお茶をうまそうに飲む。
黒いタンクトップに短パン姿。歩きやすそうな格好だ。荷物は大きい。寝袋と保温シートを丸めて、バックパックに縛り付けている。装備は万全に見える。
「焼きそば食います?」龍馬くんが尋ねる。
「え、いいんですか?」
龍馬くんは接待所の奥からカップ焼きそばUFOを取り出し、お湯を注ぎ始めた。
「今までカップ麺を出してくれる接待所とか、ありました?」
「無かったですよ」と笑う。
「接待所って、ここの他にもたくさんありましたか」と僕。
「どうなんでしょう。僕の持っているガイドブックがしょぼいんで、よく分からないです」
お遍路さん向けのガイドブックというのが何冊か出版されているようである。
「お遍路をされるきっかけは、何かあったんですか」龍馬くんがさらりと尋ねた。
「いやぁ……」と頭を掻きながら、「いろいろなしがらみから解放されたくって」
「しがらみ」
「ええ。いろいろ。あ、ありがとうございます」頭を下げて、お遍路兄さんはカップ焼きそばUFOを受け取った。
「いつから歩いているんですか」
「昨日からですけど、実は二年前にも一度歩いたことがあって。その時は二週間歩いて、三十七番まで来たんです」
三十七番というのは、土佐東寺庵の手前、窪川にある岩本寺というお寺のことだ。土佐東寺庵は三十七番と三十八番の札所の間に位置している。
「その時はどれくらいかかりました?」
「二週間くらい」
「ずっと歩き続けたんですか」
「ええ」
お遍路兄さんはかなりがっちりした体格をしている。彼ならたしかに何日間も歩き続けられるかも知れない。
「十月だったもんで、ガクガク震えながら野宿してましたよ」と、懐かしむように言う。
「今回はどれくらいまわられるんですか」
「あと二週間」
「全部、まわりきれるんじゃないですか」
「いや、たぶん無理」
「普通、一周するのにどれくらいかかるんですか」
「二ヶ月くらいかな」龍馬くんが代わりに答えた。
「そんなものでしょうね」お遍路兄さんも応じる。二週間を二回で、全体の半分をまわって。彼はこの後も、人生の節目ごとに四国に戻ってくるのだろうか。
「ここはどうやって知ったんです?」
「偶然です。さっきそこを歩いていたら、無料接待所っていう看板が見えて」
蜷川さんのロケーション選定は間違っていなかったようだ。
お遍路兄さんの出身は千葉だが、現在は京都の立命館大学で学生をしているという。
「今は五回生です。単位はもう揃ったんだけど」
「それなのに、卒業していない?」龍馬くんが驚いたように言う。
「ええ。ちょっといろいろ考えてみようかなって思って」
「大学では何を勉強しているんですか」
「心理学です」
「さすが。自己探求ですか」
「いや、そういうのじゃなくて。実験心理学です」
つまり、人間がボタンを押す反応速度の計測とかをしているということか。
それはそれで一種の自己探求だろう。
焼きそばを食い終わったお遍路兄さんは立ち上がり、「それじゃ、これ」と言って、短冊くらいの大きさの白い紙札を龍馬くんに渡した。
「どうも」と受け取って、お菓子を並べた机の上に置く。すでに何枚かの札が重ねられていた。
接待所の外に出て、お遍路兄さんを見送った。
彼はこれからまた一日歩き続けるのだ。いや、次の目的地に着くまで三日かかるのだ。
すごい根性である。
「学生さんがこうして来てくれるってのは、嬉しいな」と龍馬くんがつぶやく。
「でも、結構くわしく自分のことを聞かせてくれるもんだね」
「いろんな人がいはるよ。来た途端、堰を切ったように話し始める人とか。『もう何日も人と話してないんです』、とか言って」
僕はお遍路兄さんが置いていった札を手に取った。
「この札、何」
「これはお遍路さんが置いていく札や。ほら」
龍馬くんは接待所の庇を指さした。見れば、たくさんの札が庇いっぱいに打ち付けられていた。
「ひとり何枚も持ち歩いていて、札所にも渡すし、ご接待に対する感謝の印としても渡していくわけやね。今までに何周したかによって、札の色が変わるわけ」
なるほど、庇に貼られた紙札はほとんどが白だが、緑が三枚、赤が二枚ほど混じっている。
「緑が五回以上。赤が十回以上だったかな。その上に金とか錦があるんだけど。どんな感じでしたっけ?」
龍馬くんが胡麻塩さんの方を向いて尋ねた。
僕らがお遍路兄さんと話している間ずっと、胡麻塩さんは玄関前に並べられた花壇の手入れをしていたのだ。
「一~四回が白。五~九回が緑。十~二十四回が赤。二十五~五十回が銀。五十~百回が金。百一回以上が錦」
すらすらと答える。
「百回まわった人って、全部歩いてまわったってことですか?」
「まさか。一回まわるのに二ヶ月近くかかるんだから、一年でも六回が限度でしょ。百回まわるには十六年もかかる。そればっかりしていたらできるかも知れないけど、さすがにいないでしょ、そんな人。バスとかですよ」
「でも、バスで百回まわるってのもすごいですよね」
「観光ガイドさんなら、それくらいまわれる」
「なるほど。ガイドさん限定だ」
「ほら、これがそれ」スーパーのビニール袋に入れられていた札の束から錦の札を取り出した。「これは胡麻塩さんがもらってきたものだけどね」
「錦の札は交通安全のお守りとして価値があるんじゃ。それだけ長い間、事故無しに回れたって意味でね」
奇妙な縁起を担ぐものである。
札には一枚一枚、残していった人の名前が書かれている。
倉敷市から来た三十一才の女性の札があった。
僕が見せると、龍馬くんが神妙な顔をして言った。
「女の人でこの世代って、めっちゃ多いねんで。大企業でキャリア積んで、堅実に働いてきて。三十代になって、突然辞めて。お遍路してるって人がかなり多い。なんでか分からんけどね。男性は定年退職後の人が多いけどな」
女性の方が悩みは多いということだろうか。
軒先で静かな雨音が聞こえる。
しばらくの間、誰もやってこない。
接待所の前に水たまりができてしまっているため、車が通るたびにばしゃりと窓に水がかかる。その音に時折驚かされるだけである。
スタッフ住居のパソコンをダイヤルアップで繋げて、ウェブメールなどを見た。
ここはブロードバンドが引けない地域らしい。
だが、ダイヤルアップの遅さもあまり気にならない。海辺の小屋では時間がゆったりと流れていく。
Posted by taro at 23:59 | Comments (0)
四国でお遍路さんを接待する。(土佐東寺庵訪問記) 後半
一時間ほど経った頃、突然、龍馬くんが立ち上がった。
「お遍路さん、探しに行こか」
「どうやって?」
「車で国道沿いを走って、歩いているお遍路さん見かけたら、土佐東寺庵を紹介して、あとで寄ってくれと誘う」
驚いた。宣伝活動までしているのか。
「お遍路さんって、そんな簡単に見つかるものなの」
「道が一本やからね。必ず国道を歩いてくるよ」
なるほど。それももっともである。
龍馬くんを乗せて、海沿いの道を走った。
左手に海、右手に山。
このあたりの行政区域は大方町という。鯨が見える街、というのが売り文句らしい。そのフレーズが書かれた看板をいくつか見た。しかし龍馬くんに言わせると、
「あちこちに宣伝してるけど、地元の人でも生まれてから一度も鯨を見たことが無いとか言っとったな」
やがて国道は両側から山に挟まれ、うねうねとカーブを描き始める。
窪川から上川口までは列車で四十分かかったので、車でもそれくらいの時間がかかるだろう。
「さっきのお兄さん、この道を歩いてきたわけね」
「そういうことやね」
「すごいよな、前回は二週間も歩き続けたって言ってたけど」
「単位揃ったけど五回生って」
「自由に使える時間が欲しいんでしょ。それか、気に入った企業の内定が取れなくて留年したとか……」
歩き遍路するほどの根性があったら、留年なんてするなよ、とか思う。生き方は人それぞれだが。
「八十八ヶ所歩いてまわったといったら、就職に有利かもね」
実際、それだけの根性があれば、どんな会社でも適応できそうだ。
今朝来ていた胡麻塩さんというおじさんの頑固そうな顔を思い浮かべながら、僕は訊いた。
「胡麻塩さんって、よく来る人なの」
「そうやね。お遍路さんやけど、まぁ、半分スタッフみたいな感じやな」
「どういう経緯で土佐東寺庵を知ったわけ」
「あの人はもともと料理人でね。いわゆる流れ板。だけどいろいろ事情があって、仕事を続けられなくなって。四国まで流れて来て、何年間かお遍路道をまわってたらしいのだけど、先生と出会って、土佐東寺庵に滞在するようになった。今では一ヶ月のうち半分を土佐東寺庵で過ごしてるね」
「一ヶ月ごとに旅に出るの?」
「あんまり土佐東寺庵にいすぎると甘えてまうから、先生が数千円渡して、『おい、旅に行ってこい』とか言って、追い出すわけ。そんで世間の辛さを感じて戻ってくる」
結局、お遍路さんはひとりも見つからないまま、窪川まで着いてしまった。
それほど期待していなかったものの、少々残念である。
「岩本寺に寄っていく?」と龍馬くんが提案した。八十八ヶ所の三十七番札所、すなわちお遍路さんが土佐東寺庵に来る前に必ず立ち寄るお寺である。運が良ければお遍路さんが来ているかも知れない。
小さな市街地を抜けて、細い路地に入る。「ここやで」と龍馬くんが指さした先は、家と家の間に挟まれた小さな山門。境内に入った。予想していたより小さなお寺だった。本堂も敷地もそれほど大きくない。
八十八ヶ所のひとつというからには、京都にあるような大きな観光寺院を想像していたのだが、そうでもないようだ。
外見はどこにでもありそうなお寺である。わざわざバスでまわるほどのこともないと思う。やはり、その価値を形作るのは信仰心ということになるのだろう。さらにいえば、歩いてまわらなければあまり意味がないのではないかと僕は思う。しかし逆に、こんな小さなお寺を訪ねるために四日間も歩き続ける精神もすごいと思う。
寺務所では初老の夫婦らしき白装束の二人連れが朱印帳にハンコを押してもらっていた。だが、龍馬くんは声をかけようとしない。僕らはそのまま本堂に入った。
天井が独特だった。
いろんな人が描いた三十センチメートル四方の絵によって埋め尽くされていた。親しみやすいお寺を目指したのかも知れないが、なぜかマリリン・モンローの絵などもあったりして、変な感じだ。
手を合わせ、旅の安全を祈った。
賽銭箱の手前に、巨大な貯金箱のような金属製の箱が置かれていた。お遍路さんがここにお札を入れていくのだ。
本堂を出て、軒先をぐるりとまわった。
龍馬くんがぽつりと言う。
「昔は八十八ヶ所に入っとったのに、他のところに取られてしまった寺とかもあるらしい」
「なんで?」
「権力闘争ちがう。明治とかの話らしいけど」
境内を出て、門前の和菓子屋で鮎の形をした焼き菓子を買った。
その向かいに、『お遍路さんの駅 休憩所』という看板が掲げられていたため、立ち寄った。
休憩所を兼ねたおみやげ屋である。手前が休憩ゾーン。
カウンターではおばちゃんがぼんやり頬杖をつき、客待ちしていた。
セルフサービスで冷茶を注ぎ、休憩させてもらう。
「境内にお遍路さんみたいな人がいたけど、声かけとけば良かったかな」と僕。
「あれは車でまわってる人や」
「どうして分かるの」
「たくさん見てたら分かるようになる」龍馬くんは断言した。
たしかに言われてみると、夫婦で延々と歩くというのは、二人の体力も違うだろうし、理解のある旦那でなければ難しいと思う。
「ここ、お客さんはよく来られるんですか?」龍馬くんがカウンター越しに、おばちゃんに尋ねた。
「今はそれほどでもないね。九月になるとバスが結構来るけど。あんま商売にはならへんね。お遍路さんの憩いの場として使ってもらってる」
二階にはギャラリーがあり、個展などにも使われているそうだ。
国道を走って、土佐東寺庵まで戻った。
車で走れば、それほどの距離とは思えない。
しかし、歩くと丸一日かかるのだ。
「すごいよな。車で一時間の道を一日で歩くって」
「んー、何なんやろうね」
僕にも龍馬くんにも理解できないモチベーションがお遍路さんたちを歩かせているのだと思う。ランナーズハイならぬ、ウォーカーズハイのようなものがあるのだろうか。
接待所には新しいお客さんが来ていた。五十代後半か六十代くらいの、小柄だががっちりとした体格の男性。白装束姿である。
「お邪魔してます。どうも」
はきはきとした喋り方は関東の人っぽい。
胡麻塩さんと親しげに話し込んでいる。
遍路道を歩いた者同士、話が合うようだ。
お遍路道で蜂の大群に襲われた話とか、冬場の野宿は辛いという話とか。
「今日は歩いている人、少ないねぇ」と白装束氏がつぶやく。
「ここ二~三日、すごく少ない」と胡麻塩さん。
「さっき、自転車に乗ったのが通り過ぎていったよ」
自転車に乗ったお遍路さんもいるらしい。白装束で、颯爽と自転車に乗ってまわっていくのだそうだ。イメージと違いすぎる。
「結構多いよ、自転車でまわっている人」と龍馬くん。
「割合的には?」
「半分くらい」
「つまり、歩き遍路と同じくらいいるということ」
「そう」
バスで回るよりは良いのかも知れないが、何だか変な感じだ。
白装束のおじさんの名前は、放浪さんという。
「この前サカウチしているのと出会ったよ」と放浪さん。
「サカウチの人間はすれてるのが多いでしょう?」胡麻塩さんが応じる。
四国八十八ヶ所の札所(お寺)にはすべて番号が振られているが、それを逆回りにまわることを、サカウチと呼ぶらしい。
「どういう字を書くんですか」
「逆に、打つ、と書く。昔は札所に着くたび、自分の名前を書いた札をお寺に釘で打ち付けていたんだよ。それを逆の順序で行うから、逆打ち」
「なるほど。それじゃ、どんな人が逆打ちするんですか」
「何回もまわって、いい加減、飽きてきた人とか。あと、閏年の時に逆打ちをすると大師様に会えるという伝承があって、閏年には逆打ちする人が多いね」胡麻塩さんが説明してくれる。八十八ヶ所巡りにもいろいろテクニックがあるようである。
「放浪さんは、もうどれくらいお遍路さんをされているんですか」
「すでに七回まわりました」
「七回!」
「ええ。この前ここに来たのは、ちょうど四十日前だ」手元の手帳を覗き込みながら、胡麻塩さんに言う。「ちょうど四十日前に会ったんだよ」
放浪さんがノートを見ながら言う。細かい字で日記のようなものがびっしりと書き込まれている。黒い字が移動経路、赤い字が接待の内容を表しているようだ。几帳面な性格のようだ。
「書かないと忘れてしまうんでね」と頭を掻く。
「それに、貴重な情報になる。どこで野宿できるかとか分かるから」胡麻塩さんが補足した。
胡麻塩さんと放浪さんは、愛媛の伊予土居という場所で初めて出会ったという。初対面なのに妙に意気投合し、しばらく行動を共にした。その後、二回目に出会ったのが土佐東寺庵。胡麻塩さんがすでにスタッフとして長期滞在している時、放浪さんが通りがかったのだ。そしてこれが三回目。胡麻塩さんが四国の内陸をうろついている間に、放浪さんはぐるりともう一周してきたのだ。
「放浪さんのご出身はどちらですか。喋り方は関東の人みたいですけど」
「ええ。生まれは和歌山なんだが、千葉で育ってねェ」
粋のいい江戸っ子風の喋り方は、落語の登場人物みたいである。
「どうしてお遍路さんをしようと?」
「いや、それがね、初めは八十八ヶ所まわるつもりなんて、無かったんですよ」芝居がかった口調で言う。「ただ、仕事ももう無いし、何もしないでいると体が鈍ってしまうからね。少し歩こうと思って、しまなみ街道を渡って四国まで来たんですよ。普通に歩いてまわろうと思っていたんですが、あるお寺をお参りしたら、番号が書いてある。ああ、これが八十八ヶ所かって思ってね。それで、まわってみようかと思ったんです」
なんとも唐突な思いつき。冗談なのかも知れないが。
「それで七回も?」
「ええ。まわっているうちに、はまってしまって」
「どういう風にですか」
「もう一回、まわってみようかなって」
あっさりと言う。
理解できない感覚だが、実際にまわってみると、そういう気分になるものなのだろうか。
「僕にはもともと放浪癖があってねぇ。ひとつの飯場に五年か六年いたこともあったけど……」
飯場というのは、土方などの職業の人たちが利用する長期宿泊施設のことだろう。体を使う仕事をずっとしてきたわけだ。
「お遍路さんをされて、何か変わったこととか、ありますか」
「ああ、なんか次第に変わっていくのを感じるね。昔は己ってぇものがあってね、人に頭下げるのがいやだったけど。今は自然に頭が下がるね。何してもらっても」
放浪さんはしみじみとした口調で言った。
昔は結構、気の強い人だったのかもしれないと、ふと思った。
「そろそろ昼飯食いに行こか」と龍馬くんが持ちかけた。
すると放浪さん、おもむろに姿勢を正して、「それなら駅まで送ってくれませんかね」と頼んできた。「こういう生活しているとね、あそこまで行くのに三百円はきつい、三百円あれば一日分の食糧になる、なんて思ってしまうんですよ」
そんなこと言われなくても、頼まれたら乗せていくのは当然だ。
放浪さんと龍馬くんを乗せて、国道を走る。朝とは逆の方向、西に向かう。こちらも当然、海沿いの道である。
道すがら、放浪さんからくわしい話を聞いた。
「飯場におられたって仰ってましたけど。仕事は建設関係ですか?」
「ええ。僕は多能工といってね。何でもしましたよ。大工やら左官やら。最後の二年間は鳶をしていましたけどね。でも、こう見えても大学出てるんですよ。今じゃ考えられないくらいいい大学をね」
「ほう」
「寄付で入れる高校ってのがあったんですわ。カトリック系の学校でね」
「ええ」
「その上にあったのが、上智大学だったんですよ」
「へーぇ」
「昔は簡単に入れたんですよ」放浪さんは謙遜する。
「それで、大学を出てすぐに建設の仕事に?」
「いや、いろいろありましてね」そのあたりはあまりくわしく語ってくれない。
「波瀾万丈の人生ですか」
「そういうところかな。家を飛び出して、北海道を放浪したりしてね」根強い放浪癖があるようだ。「あの頃は宿代を三日分くらい持って、田舎のハローワークに行ったりしたら、すごい歓迎を受けたもんですよ。若い人間がいないもんだから、仕事がいくらでもあった。就職のための保証人がなければ、ハローワークの課長がなってくれたりしてね」懐かしむように言う。
あちこち放浪しながら、仕事を続けてきたようである。
「ほんの数年前までは、毎晩のように飲みに行って、五万から六万使って。外人専門の店でね。しまいには迎えまで来るようになっちゃって。だけど最近の会社はね、冷たいですよ。六十才の誕生日になった途端、肩を叩かれて、降りて来いって言われるの。鳶の仕事はやらせてもらえないわけ。そしたら給料も安くなってしまうし。それがほんの一年前の話ですよ」
それで思い立って、仕事を辞めて、四国までやってきたのだと言う。
「実際に歩いてお遍路さんされている方って、今現在、どれくらいいるんでしょうか」
放浪さんは少し考えて、
「本当にまわっているのは、七~八人かな。あとは偽遍路。土地の言葉で『ヘンド』って言ってね」
「ヘンド?」
「うん。ヘンド」
「どういう字を書くんですか」
「知らない」放浪さんは首をすくめた。
「それって、本物のお遍路さんとどう違うんです?」
「ヘンドはお寺をまわったりしないですな。街と街の間を電車でぴゅうって移動してね。人からもらった金で仲間と宴会したりしている……。あ、そろそろかな」
線路の下をくぐった。
「今夜はあの駅で野宿するんです。だけどその前にスーパーで買い物したいんで、もう少し行ってもらえます?」
僕は車をさらに走らせる。
中村の商業地区らしき地域に入った。
広い駐車場を抱えたファミレスや焼き肉屋などが並んでいる。
「胡麻塩さんとはこれまでにも何度か会ってね。余ってるお茶碗を渡してくれて。これで托鉢しろって言うんだけどね。僕は絶対に托鉢しない。貯金でね、まわってるんです。年金に入ってなかったから、たいした額じゃないんですけどね……。あ、そのスーパーです」
国道沿いの大きなスーパーの駐車場に車を停めた。
「このスーパーはパンが安いんです」放浪さんは嬉しそうに言う。
七回まわったというからには、ここも何度も立ち寄っているのだろう。
スーパーの入り口前で放浪さんは降り、頭を下げて、白装束のままスーパーに入っていった。
もっといろいろ話を聞きたかったが、旅人を引き留め続けるわけにもいかない。
車をUターンさせ、元来た道を戻る。
僕はさきほど放浪さんが言っていた言葉が気になって、龍馬くんに訊いた。
「ヘンドって、どんな人たちのことなの」
「定義は難しいな。人それぞれに基準があらはんねん。二晩同じところに泊まったらヘンドだって言う人もいるし」
「なるほど、たしかに。酒を飲んだらヘンドだって言うなら、おいしいもん食うのはどうなんだ、ってなるしねぇ」
「そうそう」
「難しいもんだね。放浪さんは托鉢を絶対しないって言ってたけど。あれは一種のプライドなのかな」
「どうなんやろ。違うんちゃうか。いろんな人間見てるから、いやになったんちゃう?」
大型店舗の並ぶ中村市内の大通りを走る。
どの店の駐車場も大きい。
百円ショップのダイソーがあった。
「でかいな」
「ここは田舎だし、何もかもでかい。土佐東寺庵の大師堂の仏具は全部ダイソーで揃えたんやで」
「すごいな」
「仏具に金をかけてないのが、先生の自慢や。ダイソー寺って名付けてもいいくらいやで」
「それ、いい響きだね」
レストランに向かう途中でも、お遍路さんの姿は見当たらなかった。
灰色の国道が空と海と山に挟まれて、延々と続いていくだけ。
荒々しい岩場が続いている。波が打ち寄せては引き、黒い岩肌を洗う。
龍馬くんが窓の外を眺めながら言った。
「昔の土佐だとね、あのあたりに掘っ立て小屋を建ててね。ハンセン病の患者を住ませていたわけよ。毎日食事だけ運んでいって。嵐が来たら、流されておしまい、っていう扱われ方でね。つい最近までそんな感じだったわけよ」
こういう話を龍馬くんはまるで見てきたかのように語る。
あとで知ったことだが、ヘンドと呼ばれて蔑まれていた人の中には、ハンセン病の患者などもいたらしい。
海沿いのレストランでは地元の政治団体の集まりが開かれていた様子で、僕らと入れ違いで選挙カーが政治家の名前を連呼しながら出て行った。
芝生に囲まれたテラスのある、お洒落なお店だった。働いている女の子たちは皆かわいい。高知は美人が多い気がする。肌は白いが目鼻立ちがくっきりしていて、印象的な人が多い。太平洋を渡ってきた様々な人種の血が混じっているせいではないかと想像してみる。
土佐東寺庵が作られた経緯について、龍馬くんからくわしく聞かせてもらった。
現在の建物はもともと、地元のKさんという人の所有だったらしい。国道沿いの立地ということで、売店を経営する人に貸したりしていたそうだが、あまりうまくいっていなかったそうだ。
「雨が降ると車の水がはねるでしょう? だから店先に商品とか並べられなくて。商売にならんわけよ。それでテナントが何度も変わって。そこに先生が目をつけて、まるごと買ってしまったというわけやね」
「いくらで?」
「土地と建物を合わせて、七百万か八百万やったかな」
よくそれだけの金額をポンと出す気になったものだ。
「歩き遍路が必ず通る、絶好のロケーションやからね」
龍馬くんは土佐東寺庵の場所設定に絶大な自信を持っているようだ。これ以上の場所は無いというような言い方である。
「それで、土佐東寺庵の当面の目標は?」
「先生がね、昔の遍路道を探したいって言っていてね。地元の老人たちから聞き取りをしているわけよ」
国道ができる前にお遍路さんたちが使っていた道のことであろう。
「記憶を頼りに教えてもらうんやけどね。『あそこの山にお遍路さんが入って行って、死んだ』とか。そんな気の滅入る話をいっぱい聞かされてね」
蜷川さんはかなりご執心らしいが、あまり成果は見込めないのではないかというのが龍馬くんの意見だった。
のんびりとした昼食を終えて、土佐東寺庵に戻る。
ドライブの途中、龍馬くんがぽつりと言った。
「先生は、もう京都の東寺庵はどうなってもいいと思ってるみたいやねぇ」
「どうして?」
「バッパの質が落ちたって言ってる」
「バッパ?」
「バックパッカー。昔は何か思うところがあって貧乏旅行しているバッパが多かったけど、今は単に安上がりの観光旅行でしょ。数が増えて、質が落ちたらしい。ゲストハウスも単なる安宿と思われている。それで東寺庵に泊まりに来た連中と話をしていても、面白くないらしい。だから先生は今、土佐東寺庵の方に力入れてはるわけや」
「なるほど。そういう理由なのか」
「お遍路さんにはいろんな人がいるからね。悩み抱えている人とか多いし」
「蜷川さん、そういう人と話すのが好きそうだもんな」
「先生は病的なところを抱えた女の人が好きやしね。普通の女の子には興味あらへんね」
「すごい精神構造をしているよな」僕は首をすくめたものの、病んでいる女性に魅かれるという気持ちは分からないでもない。
「東寺庵のスタッフの子とか、芸術系の学校の子ばっかりやん」
「そういえばそうだね」
「先生が興味を持つのは、病的な人と、芸術系の人オンリーやね」
奇人である。だが、そのおかげで僕らはずいぶん楽しませてもらっている。
「まぁ、でも蜷川さんは普通の金持ちより良いお金の使い方しているようにも思うよ。贅沢をするでもなく、女に熱を上げるでもなく。未来の芸術家たちに投資しているわけだから……」
土佐東寺庵に着いて、スタッフ部屋にて暑い午後をまったりと過ごす。
お遍路さんは来ない。
朝から降り続いていた雨も止み、日が姿を見せた。いったん晴れてしまえば、日差しは非常に強い。湿った道路もすぐに乾くのではないかと思われるほどだ。
あいかわらず建物の前を大型トラックがせわしなく走りすぎていく。その一方で、建物の中では漫然とした時間が流れていく。
京都の東寺庵もまったりとした場所だが、ここはそれ以上かも知れない。
あまり何も起こらないので、帆保江ちゃんを連れて近くの砂浜までドライブした。
二キロも走れば、海岸線が岩場から砂浜に変わる。駐車場があり、町営の公共施設や売店がぽつりぽつりと並んでいる。
駐車料金は無料だ。好きなところに停めればいい。
土手を越えると、長い長い砂浜が続いていた。
傾いた太陽が薄い雲の向こうから細い光を注いでいた。
西も東も視界の続く限り砂浜が続いていて、圧巻だ。
遊泳客の姿はほとんどない。
三人連れのサーファーが閑散とした浅瀬で波と戯れている。
波が打ち寄せるたび、強い風に吹き上げられた飛沫がまるで霞のようにたなびいて、幻想的な光景を作り出していた。
土佐東寺庵に戻った時には、五時をまわっていた。
北国さんと龍馬くんがあいかわらず部屋でまったりしていた。
龍馬くんが体を起こして、帆保江ちゃんに頼んだ。
「そしたら、ごはん頼むわ」
「はい」
帆保江ちゃんが主婦のように台所に立ち、男共はこたつを囲んで雑談。
こんなまったりな生活を続けていたら、抜け出せなくなりそうだった。
龍馬くんと北国さんが出かけて、アジの刺身を買ってきた。
午後六時。夕闇の迫る接待所では胡麻塩さんがひとりで文庫本を読みふけっている。
壁には東寺のポスターがたくさん貼られているが、これは本来、京都の東寺がお遍路さんの参拝を促すために作ったものだ。これだけ見ると、まるでここは東寺の出先機関のようだが、実際には東寺とは何の関係もない。この紛らわしいポスターのせいで、土佐東寺庵で接待を受けたお遍路さんが、京都の東寺に「あの時はお世話になりました」とか、礼を言いに行ってしまったこともあったらしい。
僕が壁に貼られた四国の地図を眺めていると、胡麻塩さんが話しかけてきた。
「その地図見てたら、まわってみたくなるでしょう」
「うーん、どうでしょう。ちょっとだけ、かな」
「一周したら1,400キロ」
「やめときます」
1,400キロといったら、東京・大阪間を往復できる距離であろう。相当な悩みでもなければ、僕はそんな距離を歩くことを決断できなさそうだ。
「放浪さんは四十日でまわったって言ってたけど。すごいなぁ」尊敬とも羨望ともつかない口調で胡麻塩さんが言う。ひそかなライバル心を抱いていたりするのだろうか。
「車のご接待を受けたりしたんじゃないですか」
「それもあるかも知れない」
ふたりで話しているところへ、帆保江ちゃんが胡麻塩さん用のご飯とみそ汁を運んできた。
「どうぞ。私が作ったんで、おいしくないかも知れないですけど」
「そんな。わざわざ持って来てくれなくても……」
胡麻塩さんは頭を下げてお盆を受け取る。
北国さんが後ろから入ってきて、
「今日は造りですよ」と言って、アジの刺身を差し出した。
「いただきます」胡麻塩さんは手を合わせる。
「どうぞごゆっくり」
僕らはスタッフ用の建物で食事する。スタッフの生活場所とお遍路さんの生活場所を明確に分けるのが、ここの方針である。胡麻塩さんはほとんどスタッフ並みの手伝いをしてくれるが、お遍路さんということで、食事はいつも接待所で済ませているようだ。
スタッフの四人で大皿をつついた。アジの刺身とソーセージの卵とじ。ご飯とみそ汁。家庭的な食事だ。
昨晩もそうだったが、刺身・ご飯・みそ汁に一品、という組み合わせが多いようである。これならそれほど手間はかからない。漁港が近いためか、刺身はうまい。
特に、今夜のアジの刺身は絶品だった。
北国さんから東北の魚の話を教えてもらった。
東北の太平洋側は寒流が流れ込むのでヒラメがいない。一方、対馬海流のため日本海側では函館までヒラメが取れる。
宮城の気仙沼のあたりではイワシの大群に追いつめられたオキアミの群れが浜辺に打ち上げる。近所のおばちゃんたちがそれを拾って養殖業者に売って、小遣い稼ぎにしているそうだ。
台所から龍馬くんがポリ容器を持って戻ってきた。
「これは桃本さんからもらったやつやけど」
土佐東寺庵のスタッフである桃本さんという人が自分で炊いたジャコ山椒。京都の名物らしい。桃本さんは昔から京都で暮らしている人である。ジャコ山椒は京都みやげとして有名なのは知っていたが、家庭でも食べられているとは知らなかった。
一日、ほとんど何もしていないのに、なぜか食が進む。
「ここにいると、魚を食べることが多いのかな」
「そーやね。だけど、地元の人が野菜持ってきてくれてね。こっちが接待されることもある」
接待されるというのはつまり、寄付されるという意味であろう。
夕食後、明日のための買い出しに出かけることになり、購入する必要のある商品のリストを作った。ペンキ塗りに使う工具がいろいろ必要だったが、すべてダイソーで手に入るという話。田舎の100円ショップはすごい。
「何でも置いてあるよ。ポルノコーナーとかもあるしね」と龍馬くん。
「ポルノ?」
「アダルトDVD。それからお経も揃ってる。曹洞宗とか臨済宗とか。全部あるで」
清濁併せ呑み、インドのバザールみたいである。
とりあえず、ダイソーとスーパーがあれば生活できるのだ。
スタッフ一同がぞろぞろ出かける時にも、胡麻塩さんは接待所で文庫本を読みふけっていた。
北国さんが運転する車で中村に向かった。
雨上がりの海沿いの夜道。ドライブは心地よい。
午後八時、すでに暗闇に包まれている土佐東寺庵周辺と比べると、何軒もの店が営業している中村は大都会だった。
買い物を済ませ、その後、スーパー銭湯で入浴した。
土佐東寺庵の風呂は小さいため、スーパー銭湯に行くのは日課なのだそうだ。
さすがに土地が有り余っているだけあって、浴槽は巨大であった。
帰ってきたら、また酒を囲んで雑談になった。
それでも零時前には就寝した。
朝は早いのだ。一日過ごしているうちに車の音に慣れてしまったのか、すぐに眠ることができた。
翌朝は七時頃に龍馬くんに起こされた。
ずいぶんぐっすり眠っていたようで、すでに朝食の時間だった。
ご飯にみそ汁、納豆。前日の朝と同じである。
接待所に戻ると、いつのまにか胡麻塩さんが大師堂の掃除を始めていた。
空はよく晴れている。
国道を渡り、コンクリート護岸の上に立った。
定規で引いたようなまっすぐな水平線。
ようやく、自分が太平洋の見える浜辺に来ていることを実感した。
土佐東寺庵、蜷川さんが言っていたように砂浜にぽつんと、というわけには行かないが、なかなか良いロケーションに建っているではないか。
胡麻塩さんは掃除を終えて、また文庫本を読み始めた。その横に腰掛けて、僕は尋ねる。
「まだしばらく、こちらにおられるんですか」
胡麻塩さんは本を閉じ、顔をあげた。
「ええ。蜷川さんに旅に出てこいと言われるまで、ここにいますよ」
冗談とも本気ともつかぬ顔で、歯を見せて笑った。
九時頃、北国さんと帆保江ちゃんに上川口の駅まで送ってもらった。
国道から駅前に続く細い道に入ると、両側に田んぼが広がっている。
上川口の無人駅はのどかな田園風景の中にぽつんと佇んでいた。
一両編成のローカル列車に乗り込むと、地元のおばあちゃんがぼんやりと車窓の風景を眺めていた。
列車はゆっくりと動き出した。
Posted by taro at 23:58 | Comments (2)
2005年10月29日
綾部市の天文館
明日の晩あたり、火星が最接近である。
ここ数日、深夜、天頂近くで異様に明るく輝いている。
忙しくて観望会とか行けていないのだが、
また来週あたり、時間を見つけて行ってみたいと思う。
ところで僕がすごく好きな天文台が京都府北部の綾部市にある。
館長の亀井恒幸先生は元学校教師で、
本当に楽しそうに星の話を聞かせてくれる。
テンションも結構高く、話の面白い方である。
もう二年ほど行っていないのだが、また行きたいと思っている。
http://www.obs.ayabe.kyoto.jp/astro/index-j.html
Posted by taro at 15:21 | Comments (0)
















































