2008年02月12日
時間とパターン
パターン認識の本を読んでいたら、「渡辺慧(わたなべさとし)」という人の論文が引用されていて、あれと思って確認してみた所、半年前に全然別の場所で話題に出た先生と同一人物だったので、ちょっと面白かった。
去年の夏、木屋町の八文字屋で友人たちと飲みながら「時間って不思議だよね」という抽象的な話をしている時、ハルカくんという人が「渡辺慧という人が時間について書いた本がいいらしいですよ」と言っていたため、心に留めていたのである。その名前が突然、パターン認識の本で出てきたのでちょっと驚いた。
この先生、元々は物理学を研究したようで、戦前にヨーロッパに渡ってドブロイ、ハイゼンベルクやボーアから直々に量子力学を学び、初期の量子統計力学に関する仕事をした人らしい。昔から時間とは何かということが一番の関心事だったようで、「時間」というタイトルの一般向けの本も書かれている。「知識と推測」という本をちょっと見てみたのだが、物理から情報への興味の変遷を橋渡ししているような内容で、情報理論や確率推論、粗視化やマルコフ連鎖のエルゴード性について延々と議論している。
パターン認識に関する仕事は1960年代に行ったようである。CLAFIC法という手法を開発されたらしい。訓練データであるパターン集合に対し、クラスごとに共分散行列を求め、固有値分解(KL展開)を行い、次元圧縮して部分空間を作る。つまり、各クラスが領域ではなく部分空間に対応付けられるのがポイントである。クラスを特徴付けるのは属性値が特定の範囲に含まれることではなく、属性間に特定の線形な関係があることである、という関係性に着目した分類法といった所か。テストデータは各部分空間への正射影を求め、ノルムが一番大きいクラスに割り当てる。
今になって思えばそれほど複雑なものではないのだけど、最初に提案したというのが重要だろう。ちなみに渡辺先生はこの手法を世界に先駆けて考案された時、59才だったようだ。
楽しげな人生である。
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2007年09月19日
情報理論と競馬
散髪屋で髪を切ってもらっている時、英語で書かれた情報理論の本を読んでいると、店の兄ちゃんである光さんが肩越しに覗き込んで言った。
「難しそうなの、読んでんな」
「これ、競馬の話なんですよ」
「え、競馬?」
大の競馬ファンである光さん、それを聞いて急に真剣な顔になる。
「ほら、Horse Race(競馬)って書いてある」
「ほんまや!」
情報理論基礎(Elements of Information Theory)という真面目な本なのだが、なぜか競馬に情報理論を使う話がたくさん書かれている。
競馬は単に例であって、ギャンブルであれば何でもいいのだが、たとえばこんな感じ。
馬の通し番号をiとおく。
馬iが勝つ確率をpiで表す。(Σpi = 1)
馬券購入者が使う資金のうち、馬iに投資する割合をbiで表す。(Σbi = 1)。
また、馬iが勝った時の配当(何倍になって返金されるか)をoiとおく。
馬iが勝った時の資金増加率は
S(i) = oibi
である。
ここでSの期待値ではなくSのlogの期待値を取って、
W(b) = E(log2 S(i)) = Σ pi log2 oibi
という値を定義し、成長率(growth rate)と呼ぶことにする。いわば2倍を単位とした増加の強度を表す値である。Wが1であれば2倍になるし、0であれば資金は増えない。
最適な資金配分bを求めるため、W(b)を最大化することを考える。
W(b)
= Σpilog(oibi)
= Σpilog(oi(bi/pi)pi)
= Σpilog(oi) + Σpilog(pi) + Σpilog(bi/pi)
= Σpilog(oi) - H(p) - D(p||b)
≦ Σpilog(oi) - H(p)
H(p)はエントロピー。D(p||b)はダイバージェンス(KL情報量)。最後の行で不等式を得るのにダイバージェンスの非負性を使っている。D(p||b)が0になるのは b=p の時である。
結局、Wの最大値は Σpilog(oi) - H(p) であり、b=p によって実現される。これはつまり、各馬の勝つ確率に合わせて資金を配分するのが良いということ。
たとえば弱小の馬がいて、1/100 の確率でしか勝てないだろうと思ったとしても、その馬に全投資額の 1/100 を賭けるのが良い。
この戦略において馬券購入者の儲けがどこから出てくるかというと、馬の勝つ確率と配当の間のズレである。
もし配当が完全に各馬の勝つ確率を反映していて、oi = 1/pi であったとしたら、
Wmax = Σ pilog(oi) - H(p) = Σ pilog(1/pi) - H(p) = H(p) - H(p) = 0
になり、まったく儲からない。
実際の競馬では配当が市場によって決まるため、それよりも正しく確率分布を予測できた人は儲けることができる。
たとえば全馬券購入者の資金がriという形で各馬に配分されていて、競馬の主催者の取り分を考えない場合、配当は oi = 1/ri になるが、W(b)をriを使って書き直してみると、
W(b)
= Σ pilog(bioi)
= Σ pilog((bi/pi)(pi/ri))
= Σ pilog(pi/ri) - Σ pilog(pi/bi)
= D(p||r) - D(p||b)
二種のダイバージェンスの差が成長率になる。ダイバージェンスは二つの確率分布の間の“距離のようなもの”と言われるが(分布の交換に関して対称でないので正確には距離ではない)、pとrが遠く、pとbが近い時に馬券購入者の儲けは大きい。
情報理論は確率論の一部門のような所があるので、それをギャンブルと結びつけようと考えるのは当然の発想かも知れないが、このように定式化されてみると面白い。
本は Thomas M. Cover and Joy A. Thomas, Elements of Information Theory, Second Edition, Wiley-Interscience, 2006。邦訳はまだだと思う。
競馬と情報理論を関連づける話の元ネタは以下の論文のようである。
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2006年10月01日
グレッグ・イーガン「ディアスポラ」
遅読家なので今頃読み終えました。
読み始めたのは2006年3月のようです。半年かかってます。
イーガンの長編の中で一番好きな作品かも知れない。
もちろん、「宇宙消失」や「順列都市
」のアイデアにはとても感銘を受けましたが、それらを読んだ後にさらなる感動を与える「ディアスポラ
」は特に優れているということではないでしょうか。
冒頭の部分の抽象性に最初は戸惑いましたが、要は進化とは別のヒューリスティクスで意識を作り出しているということですね。
このようなことが(たとえば別の天体で)自然に起きることがあるのか、個人的に興味があります。
中盤以降は非常に人間的な話になり、いわばイーガン流スペースオペラ。様々な可能性を模索していて、非常に興味深いです。
巻末の「参考文献」にはデネットの「解明される意識」とミンスキーの「心の社会」から影響を受けたという言及が。
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2006年08月10日
「解明される意識」
ダニエル・デネットの「解明される意識(Consciousness Explained)」という本を読み終えました。僕はものすごい遅読家なので、この本を読み始めたのはもう二年も前。というのも無数の本を並行して読むからで、読み途中になっている本が現時点で百冊以上あるはず。
この本はなかなか興味深かったので、感想を書いてみます。
人間の意識、つまり自意識や主観といったものを説明しようとする本です。
まず、意識というものはひとつのまとまりではなく、いくつもの流れに分割できるのではないかという主張がなされます。
脳の中では様々な意識の流れ(何かに向けられた注意、と言った方がいいのかも知れない)が競い合っている。それぞれが異なる方向に向けられ、異なることを考えている。多数の注意が同時に存在している中で、生き残って記憶に残る注意もあれば、消え去っていく注意もある。これらの注意が互いに自分を主張し合い、混沌の状態(pandemonium)にあるのが人間の意識である、というモデルです。このあたりはミンスキーのマルチエージェントによる「心の社会」を思わせます。
デネットは自分の考え方を多重草稿モデル(Multiple Draft Model)と呼びます。たとえばネット上に文章を公開した場合、人から間違いの指摘を受けて書き換えることがあります。この時、自分のサイトには最新の文章がアップされているにも関わらず、修正前の文章が他人に引用されて広まっていったりします。修正版はそれを追い掛けるようにして広まっていく。そのように何種類もの草稿が同時に存在し、それぞれが並行して使われているのが脳内の情報処理の過程ではないか、という考え方です。
これに対し、脳のどこかに意識の存在する場所があり、そこに到達した情報のみが主観的に感じられる、という考え方をデネットはデカルト劇場(Cartesian Theater)と呼びます。精神と肉体を分けて考えたデカルトにちなんだ名称です。
では、本当にそんな場所はあるのか。それを認知科学の実験結果に基づいて議論していくのがこの本です。
たとえば カラーファイ現象(color phi phenomenon) という実験があります。白い背景の上で、赤の円と緑の円が左右に数センチの間隔をあけて、交互に点滅しています。点滅の速度を調整していくと、ある速度の時に、円が左右に移動しているように見えます。円が消えて真っ白になることはなく、連続的に動いて見える。色はどうなるかというと、赤の円が中心に向かって動いて行き、ちょうど中間に来た時、緑に切り替わり、残りの道程を動いていくように見えるそうです。(僕は速度調整がうまくできていないためか、まだそのように見えていません……)
この結果の不思議な所は、緑の円が動いているという錯覚は、緑の円の出現によって引き起こされるにも関わらず、主観的時間の中で、緑の円の出現に先立って現れるということです。「何度も赤と緑が繰り返しているから、前回の記憶から緑が動いて見えるのではないか」という批判に対しては、色の選択がランダムであっても同じ現象が生じるという結果が出ています。
これを説明するためのひとつの考え方としては、いったん意識された光景(赤の円も緑の円も現れていない真っ白な状態)が、緑の円が現れた後に、緑の円が移動しているという錯覚で上書きされている、という見方があります。これをデネットはオーウェル的改竄(Orwellian revision)と呼びます。オーウェルの「1984」で過去の歴史が改竄されているように、記憶があとから変えられているのだという見方です。
これに対立する見方が、スターリン的改竄(Stalinesque revision)。スターリンが大粛正の頃にでっち上げの裁判を行い、政敵を処刑していったように、現時点で嘘の情報を作り出し、それを歴史にしていくという考え方です。こちらの見方では記憶が書き換えられたりすることはありません。
ところがカラーファイの実験では、赤の円が消えてから緑の円が現れるまでの時間差は200ミリ秒だったそうです。別の実験で、緑の円が現れたらボタンを押すということをしてもらい、反応時間から神経の伝達時間を引くと、200ミリ秒より短くなってしまうのです。つまり、普通に考えると、赤の円も緑の円も現れていない光景は(一瞬であれ)被験者に意識されていなくてはならない。
だとしたら、スターリン的改竄を主張し続けるための唯一の方法は、意識というものはかなり遅れて感じられるものだ、ということになります。つまり、ボタンは無意識のうちに押され、その後で被験者は緑の円の出現を意識している。
どちらが正しいのか。
実際のところ、スターリン的改竄とオーウェル的改竄の違いは「意識された瞬間」をどこに置くかという違いだけです。意識された後で書き換えられるか、意識される前に書き換えらるか。それ以外はまったく同じ。
ここでデネットは、「その区別に意味はあるのか」と問います。
興味深いことに、どちらが正しいかは外部の観察者だけでなく、被験者本人にも判断できません。
デネットは被験者の報告も信頼して意識に関する議論を進めていくアプローチをヘテロ現象学(heterophenomenology)と呼ぶのですが、この区別は科学的に検証不可能であるだけでなく、ヘテロ現象学の手法でも検証不可能です。
まったく区別できない違いであるとしたら、そのようなものを論じることには意味があるのでしょうか。
結局、「意識の在処」や「意識された瞬間」、「情報が脳のその線を越えた瞬間(あるいはこの条件を満たした瞬間)、意識に現れるという場所(a mythical Great Divide)」といったものは議論の対象にならない、というのがデネットの主張です。
直後に現れるリングによって、最初に現れた小さな円が認知されなくなってしまうメタコントラスト・マスキング(metacontrast masking)という実験も、同様の内容を示唆します。
これが前半の中心的な話題。
もしデネットの多重草稿モデルが正しいとしたら、将来的に「意識の統計学」というようなものが出てきたら面白いと思いました。
後半は、意識は並列処理のアーキテクチャ上に実現されたフォン・ノイマン型のバーチャルマシンであるという話や、そもそも意識というものは自分自身に語りかけることから発生した、などという結構オーソドックスな議論、意識というものは重心のように便宜上使用される抽象概念(語りの重心、the Center of Narrative Gravity)である、といった言及もありますが、この本の醍醐味はやはり、認知科学の様々な実験結果の上にモデルを立てていく点にあると思います。
たとえば、いつまでも音が高くなっていくように聞こえる「シェパードのトーン(Shepard's tone)」。別名「床屋の看板的な音(auditory barber pole)」。
このページの「APPLET: Shepard's Tone」をクリック。
あるいはこのページ。ただし、こちらはOggというコーデックのインストールが必要。
聴覚における錯覚とでも言えるもので、興味深いです。
僕が昔から関心を持っている逆さ眼鏡の話もありました。上下や左右を逆転して見せる眼鏡なのですが、ずっと掛けていたら、ある瞬間からそれが正常に見えるようになるらしいのです。視野の上が正しく上に感じられ、下が正しく下に感じられる。
では、色を反転させる眼鏡をずっと掛けていたら、ある時点からそれが自然に感じられるようになるのではないか、という仮説をデネットは提起します。もしそのようなことが起きるとしたら、「赤のクオリア」「緑のクオリア」といったものは本当にあると言えるのか。逆さ眼鏡の発展として面白いです。ヘッドマウントディスプレイを使えば実験できそうです。やってみたい。
本の中で、目の見えない人に視覚の代替物を与える方法として、超低解像度ビデオカメラで撮影した16×16あるいは20×20の画像をその配置で腹部への刺激として与え、トレーニングを続けた結果、人の顔を判別できる程度まで使えるようになった、という話が出てくるのですが、デネットはこれをクオリアに関する議論の導入として使っています。つまり、その人には視覚のクオリアがあると言えるのかどうか。
ここで思ったのですが、色の違いによって皮膚への刺激の種類を変えるようにしたら、さらに興味深いかも知れません。被験者がその皮膚的な色覚に熟練した場合、その人は色のクオリアを持つようになったと言えるのか。結局どんな刺激であってもクオリアになりうる、という主張がしやすくなるのではないかと思います。
また、たとえば青という色は様々な経験と結びついているのであって、クオリア論者が行うように、色単独で論じることに意味があるのだろうか、という指摘は興味深いです。
後半の中で特に面白いのは、人間が実際に取得している外界の情報がいかに貧弱であるかという話です。
トランプを一枚、絵柄が描かれた面を向こう側に向けたまま手に持って、一番遠くまで手を伸ばし、視線は真正面を向けて、そこからトランプ五枚分ほど離した位置に手を持ってきます。この時点でトランプを裏返して、番号とスート(絵柄)が何であるか、当てられるでしょうか。
これ、実際にやってみると、本当に分からなくて、びっくりします。かろうじて色が分かる程度です。つまり、視野の周辺ではそこまで細かいものが見えないということ。人間の眼がはっきり物を見れる範囲はかなり狭いということ。
それなのに普段、視野の端まですべてはっきりくっきり見えているように感じられるのは、脳が補っているからです。
では、どのように補っているのか。 記憶に基づいて頭の中で風景全体を描き出しているのでしょうか。
別の実験。
以下の方眼の各行に、上から順に GAS、OIL、DRY という文字列を入れてください。実際に書き入れてはダメです。頭の中で書き入れている様を思い浮かべること。
しっかり脳裏に浮かびましたか? 上の行から順に、GAS、OIL、DRY です。その光景を思い浮かべることができるでしょうか。
それでは問題。映像を思い浮かべながら答えてください。先ほどの文章を見て確認してはダメです。
方眼に書かれている文字を縦に読んだとしたら、何と書かれているか。
横に読むのと同じように、縦に読むこともできますか。
これ、僕にはできませんでした。
思い浮かべられているようでいて、全然思い浮かべられていない。
photographic memory(写真を撮るように、目に見えている光景を完全に記憶する能力)という言葉がありますが、一般人には photographic imagination すら困難ということでしょう。
しかし、過去の光景を思い浮かべる時、まるで実際に見ているかのようにはっきりと思い浮かべられていると感じることはしばしばです。
ということは。
逆に考えてみると、「自分が今見ている光景」も、実は「はっきり見えているように思っているだけ」なのかも知れない。「思い浮かべられていると思いこんでいるだけ」と同様に、「見えているかのように脳が処理しているだけ」なのかも知れない。
たとえばマリリン・モンローの顔写真で埋め尽くされた壁紙の部屋に入ったとしたら、周囲のマリリン・モンローはほとんど見えていない、といったことが考えられます。視覚野では処理されておらず、脳のもっと奥でそのような光景が描き出されているわけでもなく。結局、「そのような部屋にいる」という命題的な情報だけが存在する、という可能性。
人間の眼には盲点がありますが、特殊な状況に置かれない限り自覚されることはありません。これも、脳内で足りない部分を補って描いているのではなく、そもそも「情報が無い」という情報を使っていないというだけ。あたかも周囲が完全に見えているかのように思わせておいて、それで問題が生じるまでは情報の欠乏を自覚させない。
変化の見落とし(change blindness) という面白い実験もありますが、これも関係するのかも知れません。間にフラッシュ挟まるだけで、写真のどこが変化したか分からなくなってしまう。人が注意を向けられている範囲は本当に狭い。
空間の構築力がこれほど貧弱なら、色の区別はどうなのでしょうか。どれだけ色をはっきり区別できているのでしょう。我々が口で主張するだけのたくさんの「色のクオリア」が本当にあるのでしょうか。
もちろん、これらの議論だけでは意識というものの存在をゼロにはできていないと思うのですが、それが我々が通常考えるよりもごくごく小さな機能しか持たないものなのかも知れない、という主張は興味深いと思います。
こうやって考えてくると、「脳内の物理的な状態がどうであれ、僕にとって重要なのはこの主観的な世界、このように見えているということなんだ」という主張は、「見えているという命題が大切」というだけの意味になってしまうのかも知れません。
もしこの本を読まれた方、読んでみたい方、興味をお持ちの方いらっしゃいましたら、ぜひ議論しませんか。ご連絡ください。
Posted by taro at 23:55 | Comments (8)
2006年01月29日
カート・ヴォネガットの古本
バークレイは学生街のため、古本屋がいくつも並んでいます。
その一軒はかなり大きく、一般の大型書店と同じくらいのスペースにペーパーバックがずらりと並んでいます。
店員さんに、
「カート・ヴォネガットの本はありますか」
と聞いてみると、
「ヴォネガットは無いかも知れないわ。よく入ってくるけど、すぐ売れちゃうから」
とか言いながら、何冊か見つけ出してくれました。
日本ではSFコーナーのハヤカワ文庫セクションに置かれているヴォネガットですが、こちらの古本屋ではしっかり「文学」のコーナーに鎮座しておりました。
“猫のゆりかご”の英語版を半額で買ってきました。
Posted by taro at 09:30 | Comments (0)
2005年07月18日
book baton
wanderingdaysさんからbook batonをもらったので、本について書きます。
1 現在持っている本の冊数
数百冊?
2 今、読みかけの本、これから読もうと思っている本
パラレルに読むことが多いので、読み途中の本が百冊くらいあります。
カニグズバーグ「エリコの丘から」という本などは十年前から読み途中になっている……。
3 最後に買った本
小林泰三「海を見る人」
4 特別に思い入れがある本(5冊まで)
とりあえず、ハクスリー「すばらしい新世界」。
これはすごい。面白い上に考えさせられます。
小学生の時にすごく感銘を受けた本は、
バビット「タック・エバーラスティング」
学校の課題図書でしたが、良かったです。
椎名誠「アド・バード」。これは中学生くらい?
テーマも面白いし、冒険心をかきたてる。
作者忘れた「ぐりとぐら」。
21世紀に伝えていきたい絵本です。
カルナップ「世界の論理的構築」。
論理実証主義好きです。
batonを以下の皆さんにまわします。
了承してくださってありがとうございます。
youkoseki
彼のシニカルな観察眼が結構好きです。
http://youkoseki.com/
koukijin
辛口批評家なので、どんな本を褒めるのか知りたいです。
http://blog.livedoor.jp/hao9i/
hiropon-san
すごい読書家です。好きな本を選ぶの大変なんじゃないですか。
http://blog.livedoor.jp/hrmasasaki/
356
編集の仕事してるってことで。面白い本を紹介してください。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=225491
Posted by taro at 18:02 | Comments (2)
2005年07月10日
少子化問題
今年の元旦から十日ほど、日経新聞の一面に少子化問題に関する記事が連載されていました。
そろそろ日本の人口が減少しつつあるとかで、年始に各紙でこぞって取り上げられていた話題です。
ぼくは知りませんでしたが、日経では五月にも第二弾を連載していたようです。
人口が減っていくとどうなるのか・なぜ減るのか・他の国ではどうなっているのか等々、
多様な側面から取り上げていて、興味深い連載でした。
日経で働いている知り合いの人も取材班に入っていて、記事を書いたりしていました。
その連載が本になったみたいです。
http://www.nikkei-bookdirect.com/bookdirect/item.php?did=35152
堺屋太一が「高校生の出産を奨励せよ」とか主張しているのがぶっとびすぎで、面白いです。
Posted by taro at 22:11 | Comments (6)
2005年06月16日
ラ・ロシュフコー箴言集
ラ・ロシュフコー箴言集という本を買いました。岩波文庫。二宮フサ訳。
十七世紀のフランスで貴族をしていたラ・ロシュフコー公爵フランソワ六世が考えた数々の警句というか毒舌というか。
「われわれは皆、他人の不幸には充分耐えられるだけの強さを持っている」
「自分の過ちが自分だけにしか知られていない時は、われわれは容易にそれを忘れてしまう」
「哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する」
こんな感じで、600個くらいの箴言がずらずらずらっと並んでいます。
なぜこんなにたくさんの箴言を考えたのだろうと思ったら、
当時のフランスには箴言を考えて競い合うという文化があったようです。
ちょうど日本の俳句の会のように、箴言の会というのがあったのです。
日本人が「古池や 蛙飛び込む 水の音」とか言って喜んでいる頃、
フランス人たちは「人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない」とか言って喜んでいたわけです。
ぼくは昔、友人たちと新商品の名称や標語を考える「ネーマーの会」というのをやっていましたが、
さすがに箴言の会というのは今時流行らなそうですね。
十七世紀のフランス人はすごいです。
Posted by taro at 20:26 | Comments (0)