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« 京都カラスマ大学で講演しました。 | トップページ | 祖父の話(つづき) » 2008年11月20日祖父の話東京に出張した折、久々に母方の祖父と都心で飲む機会があり、昔の話を聞いて面白かったので書き留めておく。 祖父は昭和二年の生まれで八十一歳だが、今も保険の営業の仕事をしていて、川崎の自宅から溜池山王のオフィスまで毎日通勤し、外回りで一日一万歩以上歩く。 家族の間では「ぶーじー」と呼ばれている。僕がつけたあだならしい。小さい頃、赤い車でいろいろな所に連れていってくれたため、ぶーぶー(つまり車)のじいちゃんということで、ぶーじーと呼び始めたそうだ。そして今でもその名が続いている。 ぶーじーの生まれは芝の神明。増上寺の門前であり、今でいえば東京タワーのお膝元だ。江戸っ子である。 実家が漬け物屋だったというのは今回初めて聞かされた。僕は昔から発酵食品に深い愛情を感じている人間なのだが、祖父の実家が漬け物屋というのは迂闊にも知らなかった。ちなみに母方の祖母の実家は菓子屋、父方の祖母の実家は自転車屋、父方の祖父の実家は梨農家である。どれも僕が好きなものだ。血は争えない。 ぶーじーの名字は下島というのだが、これは長野の伊那谷にある地名である。実際、ぶーじーの父親は信州高遠の生まれで、農家の四男か五男だった。耕地の少ない長野では長男以外は土地をもらえず、外に職を求めなくてはならない。それで十歳の時、長野と東京の間を行き来していた飛脚の人に頼んで就職先を探してもらった。「飛脚」というのはつまり郵便局の職員のことだろうが、当時の伊那谷にはまだ列車が走っていないため、かなりの距離を人が歩いて郵便物を運んでいたそうである。それで飛脚という言葉が使われていたようだ。 その飛脚の人が神田の漬け物屋を紹介してくれたため、ぶーじーの父親は東京に旅立つことになった。親に弁当を包んでもらい、杖突峠から諏訪へ、さらに和田峠を経て高崎まで歩いた。そこから汽車に乗って東京に向かう。最初の峠を越える時、振り返ると母親がいつまでも手を振っていたそうだ。 そして神田の漬け物屋で働き始めたわけだが、仕事はかなりきつかった。今でいう小学五年生くらいで働いているわけである。いわゆる丁稚奉公。逃げ出したら親元に米五俵の賠償が求められるとかで、必死で堪えて働き続けたという。やがて成人してのれん分けさせてもらい、芝で漬け物屋を開いた。 ぶーじーはその漬け物屋の十一人目の子供。昔の人は子沢山である。 小学生の頃、お弁当のおかずはいつも店先にある漬け物だった。だが、親が毎朝言うのは「そこにある一番安いの持ってけよ!」。 何が一番安かったかというと、「たらこ」だったらしい。タラが大量に獲れた時代なのだ。たまには違うもの食いたいなぁと思っていたが、タラコ以外の漬け物を持って行くと親にえらく怒られた。 だが小さい頃は日本全体の経済もそれほど悪くはなく、実家が商売をしていたこともあって、比較的豊かな生活だった。 ぶーじーはそのまま東京で五年制の旧制中学校を卒業し、兵庫の川西航空機に就職した。紫電改という飛行機を作った有名な航空機会社である。すでに太平洋戦争は始まっていて、もっぱら軍用の飛行機が作られていた。その時、ぶーじーは十七歳くらい。 週末に大阪に遊びに出かけると、梅田の駅前でもんぺ姿のおばちゃんたちがずらりと並んで回数券をばら売りしているのをよく見かけた。十枚買うと一枚余計についてくるので、その分が儲けになるのだ。東京ではそういう光景は無かったらしく、大阪人ってのは商魂たくましいなぁと感心したそうである。そして駅員から買っても同じなのに、あえておばちゃんたちから買う大阪人の助け合いの精神にも感銘を受けたそうだ。 たまに実家に帰省することもあったそうだが、川西から東京まで三十六時間かかった。なぜかというと戦争中のため、東海道線は軍人専用、中央線は企業の社用専用。一般人は日本海まわりで帰らなくてはならなかった。 川西航空機には一年ほど勤めたのだが、戦況いよいよ厳しくなり、国を守るには軍隊に行かなくちゃと思ったらしく、会社を退職し、海軍に入隊した。予備練習生になったわけである。神奈川の厚木にあった海軍航空隊に配属され、関東に戻ることになった。 つづく。 Posted by taro at 2008年11月20日 22:33 |
