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« タイ帰りの友人とかと飲む(自由意志/詩を作るプログラム/躁鬱病など) | トップページ | 公園の猪 » 2007年08月09日仏教を一語で言い表すとその日、僕はタイ料理店で昼飯を食っていた。 僕の食事はたいてい中華料理かインド料理かタイ料理なので、その店も頻繁に足を運んでいる場所のひとつである。 店内におかれたテレビは普段、タイの歌謡曲のDVDを流しているのだが、その日はたまたまタイの観光紹介のビデオを流していた。外国人向けビデオなのか、説明は英語である。 何気なく聞き流していたのだが、タイの寺院の映像と一緒に、「タイ人は何々を求めてお寺に来る」という説明が流れた。 その「何々」という単語を聞いた時、それが仏教というものを非常に良く言い表していると思い、変な所で感心してしまった。仏教の思想の簡潔な要約なのである。 それで僕は最近、「仏教を一語で表すならこの言葉だよね」といろいろな人に言ってまわっているのだが、納得してくれる人とくれない人がいる。 仏教に対する思いは様々であって、一語にまとめるなどということには無理があって当然なのだが、それでも面白くていろんな人に言ってしまう。 その言葉は仏教の思想的な側面と社会的な側面を共に表している点がよく出来ていると思う。英語では一つの単語で言い表せるが、日本語に訳した場合は二種類の語に分かれてしまうので、今まで気付かなかったのである。 さて、その言葉とは何でしょう。 比較のために、キリスト教を一言で表すとしたら、やはりLoveではないだろうか。 これはかなり多くの人が納得してくれる。少なくとも日本人のキリスト教理解はLoveで間違いなさそうだ。 キリストLove。愛の宗教だ。 仏教の場合は何か。 何でしょう。 もう答え書きますよ。 僕がタイ料理店で耳に挟んだ言葉は、Peaceである。 心の平穏と社会の平和。 日本語では「平穏」と「平和」という二つの語だが、英語の場合はPeace一語になる。 もちろん、かなり無理があるとは思う。1MBの画像を1バイトに圧縮するような荒っぽさだ。それでもこういう要約があってもいいのではないか。 キリストは地上にPeaceをもたらすつもりで来たかも知れないし、仏陀のLoveは素晴らしいものかも知れない。 しかし、やはりしっくり来るのはキリストLove、仏陀Peaceという気がする。 そう考えるとヒッピーがよく使うLove and Peaceというのは含蓄のある言葉だ。 Posted by taro at 2007年08月09日 21:07 |
コメント
手塚、
お久しぶりです。いつもながら面白い視点です。
悪乗りしてみて、
ユダヤ教=Promise / Exile
イスラム教=Universality / Equality
というのはどうでしょうか? 英語苦手なので、かなり適当です。
Posted by: 佐藤匡剛 at 2007年08月09日 21:44
ユダヤ教もイスラム教もそんなに知らないのですが、イスラム教 Equality というのはありかも知れませんね。神の前の平等?
ユダヤ教の人たちは精神的にも歴史的にも忍耐力がありそう。PromiseしてもらったのにExileされちゃいましたからね。忍耐力があるから出世するという気も。でも、Patienceだと響きが安っぽい。Toleranceだと寛容という意味が入ってきてしまいますが……。
Posted by: taro at 2007年08月09日 22:06
僧侶から一言。
仏教では愛というタームは普通悪い意味で使われます。愛は執着につながるから、ということで大体ちょっと表現を変えて慈悲と表現します。別に大した意図のあるコメントではないのですけど。
Posted by: 躁狂 at 2007年08月10日 23:44
そうか、「仏陀のLove」はちょっと変なわけですね。ありがとうございます。
しかし、仏様から人間への思いは慈悲だとして、人間同士の間の感情も慈悲が理想になるんですかね。執着心のない思いやり?
Posted by: taro at 2007年08月10日 23:57
考えさせられました。
「愛」は、執着なのですね。
確かにそうかもしれません。
子供への愛も、ある意味、執着ですものね。
悟りを得るとは、それら全てから解き放たれることですね。
色即是空 空即是色 なのですね。
Posted by: ゆみ at 2007年08月17日 15:25
悟りというのは座禅をしている時に不意にひらめくものであるというイメージがあったのですが、最近はもっとじわっと訪れるものなのかも知れないとも思います。
愛には執着という側面が確かにありますね。
Posted by: taro at 2007年08月20日 18:29
