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2007年06月13日

手塚太郎さんに会ってきた。

企業と研究者を結ぶNPO法人KGC理事長の柴田さんが自分の同姓同名と会ってきたという話を聞いて、僕も会いたくなった。

柴田さんの同姓同名は何人かいるらしいのだが、そのひとりが海上自衛隊で1佐(昔で言うところの大佐)をしている柴田司令であり、尖閣諸島のあたりを守るという重要な任務を担っている人物。その割にとても気さくな人らしく、KGC柴田さんからの突然の連絡に対し、快く会ってくれたという。実は柴田司令、ネット上で自分の名前を検索したことがあって、その時トップに来ていたKGC柴田さんのことは意識していたのだそうである。そんなKGC柴田さんの最近の夢は、多数の同姓同名で集まって「柴田有三シンポジウム」なる集まりを開くことだとか。ぜひ参加したいイベントである。

さて、手塚太郎の場合、比較的よくある名前のようで、実は京都にも何人かいる。以前、京都市立図書館で利用者カードを作ろうとした時、すでに登録されていないかを確認してもらったのだが、受付のお姉さんに「これじゃないですよね」 と言われて見せられたのが大正生まれの手塚太郎さん。

「あー、いるんだー、京都にも」 と思った。

さすがにその時は会いに行こうとは思わなかったが、今回はもう一人、比較的会いやすそうな手塚太郎さんを訪ねてみることにした。

京都御所の西に「手塚」という洋食屋があり、グルメガイドにもよく載っている店なのだが、そこの店長さんが手塚太郎という名前らしいのである。これはネットで検索して知った。

洋食屋手塚

実は過去に何度か行ったことがある。その時はまさか、同姓同名の人に料理を作ってもらっていたとは思わなかった。店の場所は我が家からおよそ1km。この世界の手塚太郎密度は予想以上に高い。

夕刻、御所と府庁の間にある小さなお店を訪ねた。

注文を受けてから作り始めるということで、気長に待たなくてはならない。かなりこだわっている店で、昼時に行くといつも満席。舌平目のムニエルを頼んだが、美味であった。

帰り際、勘定をしてくれた奥さんらしき人に尋ねる。

「ここのマスターは手塚さんって苗字なんですよね」
「ええ。そうなんです」
「実は僕も手塚なんですよ」
「あら」
「ご主人のお名前、何というんでしょうか」
「太郎です」
「僕もです」
「えええ!」

こちらはあらかじめ知った上で行っている訳だが、むこうは突然言われてかなり驚いたのではないか。いきなり目の前に同姓同名が現れたら、僕は結構驚くと思う。

店の奥でフライパンを手にしていた四十代くらいのご主人が顔を出して、

「料理は作られますか」

と聞いてくる。

それが最初の質問であった。さすが料理人。この手塚太郎さんにとっては料理を中心に世界が回っているのだということに気付き、ちょっとした衝撃を受けた。

「いえ。あまり」
「そうですかー。そこは違うんだなー」

人の良さそうな職人風のおじさんである。ああ、この人は四十年以上、手塚太郎だったんだなと思うと、感慨深いものがあった。

手塚太郎という名前について、考えたりすることはあるのだろうか。なぜ人間には名前というものがあるのだろう。ほとんどの人は死ぬまでひとつの名前を背負って生きていく。自分というアイデンティティに真っ先に付随する属性。それでいて自分で選んだわけでもない名前。そのことを不思議に思ったりするだろうか。

奥さんと二人でにこにこ笑いながら、「出身はどちらですか」と聞いてくる。

「東京です」
「それも違うな。うちは青森の津軽なんですよ」

だいぶ遠い。手塚一族はそんな所まで移住していたのか。ちなみに手塚家の発祥の地は長野県の諏訪だと聞かされている。手塚城というお城が昔あったらしい。

「手塚太郎光盛という先祖がいて、それにちなんで付けられたみたいで」 と僕。
「あ、僕も」 と洋食屋の手塚さんも応じる。

僕の名前は祖父の意向で付けられたようなのだが、今回、それが実にベタな発想であることが明らかになった。

なお、洋食屋手塚さんの息子さんの名前は「一郎」と言うらしい。

いいご夫婦だと思った。

名刺を渡してきた。

手塚太郎という名前に対する思い入れを聞こうと思っていたのだが、うっかり聞き逃してしまった。

また次に行った時、改めて聞ければと思う。

Posted by taro at 2007年06月13日 23:11

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コメント

面白いね、そんなに手塚太郎がいるもんなんだ(笑)
女の人は結婚すると名前変わるから、またそれは不思議なかんじなんだろうな。
神田うのは宇野うのになるらしいよ(笑)相手は選べても苗字嫌いだったらどうするんだろ?
男は一生自分の名前だもんね。養子とかに入らない限り。

Posted by: 吉野麻衣子 at 2007年06月14日 19:12

全国的にはすごい数の手塚太郎がいると思います。

結婚で苗字が変わるというのも不思議な感じなんでしょうね。しばらく自分のアイデンティティが下の名前に集中しそう。(僕は太郎だ、みたいな)

Posted by: taro at 2007年06月14日 21:52

僕も同姓同名のヒトがいるんでしょうか・・・。

Posted by: 356 at 2007年06月15日 02:00

356の苗字は珍しいですからね。いないかも知れない。寂しいですなぁ……。

Posted by: taro at 2007年06月15日 07:08

姓名判断という占いがありますが、妥当かどうか?
同姓同名の人が集まると、評価できますね?
名前については、ベタな名前のほうが幸せを呼ぶのではないかと、わたしは思っています。

Posted by: hidaka at 2007年06月15日 10:16

僕の場合、これ以上ないくらいベタな名前です。ありがとうございます。

同姓同名の人が集まった瞬間、血液型占いの話をする時のように、「当たってる当たってる~」っていう風になったら面白いです。

Posted by: taro at 2007年06月15日 23:14

私の名前はありそうで意外にない名前なので,同姓同名には今まで出会ったことがないです.
あっても読み方が違ったり.
でも,taroさんの日記を見て探してみたら,一人見つかりました.
ものすごく親近感わきますね.同じ名前で人生を生きてるんだーーって.

Posted by: さとっち at 2007年06月16日 00:20

たしかにさとっちさんの下の名前の場合は、読み方違いが多そう。同じ読ませ方の人、よく見つけましたね。
親近感もわきますが、微妙に不思議な感じもします。
全国のさとっちさんは皆、「私はさとっち」って考えてるわけですよ。

Posted by: taro at 2007年06月16日 23:53

はじめまして。

小生も母方のご先祖様が手塚太郎光盛だと聞かされて育ちました。
その家は、山梨県北杜市高根町にあります。

古文書(家伝のものではありませんが)や江戸時代の石祠など、
それを裏付けるものもあります。

大変困難ですが、光盛について少しずつでも調べていきたい
と思っています。

お差支えなければ、情報交換などさせていただきたいと思います。
よろしくお願い申し上げます。

Posted by: 左京亮 at 2007年07月02日 14:11

書き込みありがとうございます。

平家物語の「木曽の最後」という段に「手塚太郎、討ち死にす」と書かれていて、たまに教科書に載っているらしく、高校の頃、何人かの友人から報告がありました。

討ち死にしてしまったのでどう繋がっているか分からないのですが、「子孫はその後、武田信玄に仕えていた」と祖父は裏付けもなく力説しておりました。左京さんともそのあたりで繋がっているのかも知れませんね。なんだか面白いです。

Posted by: taro at 2007年07月02日 21:37

そうすると太郎さんのルーツも山梨に?

当方の戦国時代(天正のころ)のご先祖様も手塚左京亮光経と言って武田の家臣だった
ようです。 山梨における光盛の子孫は、他にも1,2件あるようです。
調べれば、そちらの名前もわかると思います。

おそらく、信玄が信州を平定した折、武田に従ったんじゃないでしょうか?

ちなみに、平家物語には諸本があって、その中には「光盛は逃げ延びた」とするものも
あるようです。
これを承けるような話が大阪の松原市にあります。
http://www.city.matsubara.osaka.jp/walk/7-57.html

何がホントかよくわからないですが、こんな世の中の役に立たないことをボーと
考えるのが面白いんですよね。 

Posted by: 左京亮 at 2007年07月03日 08:49

すでにご存知かも知れませんが、室町時代に編纂された御伽草子の中に「唐糸草子」というのがあり、手塚太郎光盛の娘と孫娘を扱っています。

光盛の娘は源頼朝を暗殺しようとして捕らえられたけれど、その孫娘が見事な今様を舞ったたために許されて、長野の上田に領地をもらって幸せに暮らしたという話です。今も上田には手塚姓が多いそうなので、我が家のルーツもそのあたりではないかと思っています。記録に残っているのは代々千葉ですが。

http://www.wul.waseda.ac.jp/PUBS/hambai/xmas/xmas2002.html

自分の先祖の中に美貌の女暗殺者がいたというのは興味深いです。

Posted by: taro at 2007年07月05日 20:34

唐糸、万寿の話面白いですよね。
昔の修身の教科書に載っていたそうです。
木曾の最後の段といい、ご先祖様のことが教科書に
載ってるのは、オモシロイ。

唐糸には津軽に渡ったというかすかな伝説があるんですよ。
洋食の手塚さんのご出身地とつながるのかな?とふと
思ったんですが。。。

上田に「手塚」という地名があって、そこが手塚姓のルーツと
思っています。
諏訪下社大祝の系から出た一派が、手塚の地で武士化して光盛につな
がっていくのかなと思うんですが。。。 

世の中が騒々しくなっていって、義仲旗揚げの前の頃、下社系が結集して
秋宮の「手塚城」につながるんじゃないかなと。

ちなみに上田市手塚の地名は、坂上田村麻呂が氷上塩焼王の手を
切断して埋めたことに由来するんですって。
ホントの「手塚」だったんですね~。

Posted by: 左京亮 at 2007年07月06日 08:09

唐糸草子はやはりすでにご存知でしたか。失礼致しました。

唐糸さんが領地をもらったから手塚、だと思ってましたが、そうじゃないのですね。
しかし、なぜ手だけ……。

Posted by: taro at 2007年07月08日 00:21

「手塚」の地名の由来については、岩波の地名辞典に書かれていたと思います。
塩焼王は天皇の血を引くヒトなんですが、悪さを再三企てた為に坂上田村麻呂
に誅されたと書いてあったと思います。(ウロおぼえですいません。)

手を埋めるというのは、悪業を企てないようにという意味なのかなあと思ったり
しますが。。。 ホントの意図はわかりません。

地名の由来についてもあくまで伝説だと思いますが、光盛の何代か前からこの
地に住み着いたのだと思います。 唐糸より先に手塚の地名があるのは確実です。
だから光盛も手塚の太郎なんですよね。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanazasi.html
壮大な系図で、ビックリです。


Posted by: 左京亮 at 2007年07月09日 08:05

系図の情報、ありがとうございます。

神主なのに戦争しすぎですね。現在の神社のイメージとだいぶ違います……。

Posted by: taro at 2007年07月09日 21:39

>神主なのに戦争しすぎですね。現在の神社のイメージとだいぶ違います……。

そうですね。 当時は戦争が日常だったんでしょうね。

上田の光盛に関する史跡を挙げてみます。

①元木の地蔵
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php3?arg_sano=668050

②手塚太郎五輪の塔

③光盛寺跡

④馬の足跡の橋

⑤手塚大城

⑥唐糸観音堂

⑦流鏑馬走路 など

光盛のホームグランドは諏訪でなく、手塚の地であったことは確かだと思っています。

Posted by: 左京亮 at 2007年07月10日 14:05

諏訪が発祥の地で、上田まで勢力を伸ばした家系だったのですね。納得しました。

しかし、上田の片隅にたまたま存在していた塚の名前が全国的に姓として広まったというのは不思議な感じです。子孫繁栄に成功したということなのですね。

Posted by: taro at 2007年07月13日 19:18

ご存知かと思いますが、平家物語などには
「手塚太郎金刺光盛」とかかれており、本姓は金刺であって
諏訪下社大祝の系である事を示しているんだと思います。

さらに出自の地名を取って、手塚の太郎がその上についたんじゃ
ないかなと思っています。
そう考えると、先の系図の流れとも一致します。

そうそう、あの手塚治虫さんも光盛の子孫といわれていますね。

Posted by: 左京亮 at 2007年07月13日 21:01

くわしくありがとうございます。
現代でも親戚を表すのに地名を使って「どこどこのおじさん」と呼んだりしますが、それと似たような感じなのだろうなと思いました。
手塚治虫もマンガの中で手塚太郎光盛の顔を自分に似せて描いていたりしたとどこかで読みました。

Posted by: taro at 2007年08月24日 00:17

はじめまして。
自分も左京亮さんと同じく母方が手塚姓でルーツ探しの途中にこちらに寄りました。
コメントが勉強になります。

今回検索にヒットしたのは「手塚大城」
手塚大城の場所と自分の母が聞いている話の本家がほど近いという事に少々興奮を覚えました。
母の話しでは

 斎藤実盛を討った話はよく聞いていた事。
 まだあるらしい本家は長野県上田市にあるという事(詳しくはわからず、他の親戚に聞いてみないと。)
 直接つながる祖先は旧小県群川辺村(現、長野県上田市上田原川辺町?)で村長をしていた名士であった事
 事業として養蚕を営んでいた事
 昭和天皇のご成婚時には紋付袴で呼ばれた事
 家紋については金刺氏の三ッ葉根あり梶の葉ではなく
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanazasi.html
 こちらに近いようです(真ん中の一は太い)
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nitta_k.html

この程度ですね。
左京亮さんお二方、そして手塚光盛の家紋は三ッ葉根あり梶の葉なのでしょうか?
家紋がまったく違うのと、手塚城の場所が遠いので現実味が無かったのですが、
手塚大城でまた興味を持っているところです。

Posted by: 犬公 at 2007年08月27日 16:44

犬公さん、はじめまして。
境遇が小生と似ていて、勝手に共感を覚えてしまいます。(笑)

現在、手塚区には手塚姓の方はいないと聞いています。
その周辺にはあまり多くはないようですが、いらっしゃるようです。
そのあたりの手塚さんにも光盛関連のことを聞き取りしてみたいと
思っていたところです。

家紋については、長い年月のうちには変わることもあり参考程度に
しかならないと思いますが、当方に関係する手塚家は「丸に花菱」
です。 武田の配下になったことがあり、その為ではないかと
思っています。 

手塚大城は現在は一般の方が住んでいらっしゃいますが、産川の
水を押さえる要衝にあって、周りを巡る水路跡も発見されており、
12世紀後半の手塚氏の住居であったことは間違いないと思われます。
その敷地内には唐糸観音堂という小さなお堂があって、光盛の
娘とされる唐糸の観音像が安置されています。

色々なところに光盛の子孫の方はいらっしゃると思いますが、
できる範囲で調べていきたいと思っています。ご協力いただければ
幸いです。また小生にできることでしたらご協力いたします。
よろしくお願いします。

太郎さんへ すいません。ご先祖探しの協力願いになっていますが、
差し支えありませんか? ちなみに家紋は何でしょう?


Posted by: Anonymous at 2007年08月28日 09:40

太郎さん
犬公さん

手塚大城の写真を発見しました。
コメントも良く書いてあると思います。

http://yamajiro.hp.infoseek.co.jp/teduka-oosiro/index.html


犬公さん

上田原川辺町というのは、おそらく神畑地区の周辺だと思います。
小生が聞いた手塚姓の分布の場所と一緒です。

Posted by: 左京亮 at 2007年08月30日 12:55

僕の家の家紋は「丸に橘」です。

手塚家のルーツの話で盛り上がっていて面白いです。

Posted by: taro at 2007年08月30日 23:18

太郎さん
左京亮さん(Anonymous at?)
ありがとうございます。

家紋も色々なのですねー。
ブログの内容からは離れそうで申し訳ないのですが、
全国の?手塚さんが集まりそうで面白いですね

すでに書かれていますが、神畑という地名はここで盛り上がってから親の話しに出ました。
(上田電鉄関係らしい?)名義変更で話しがあった時、その土地が神畑だったようです。
上で神畑地区とあるのでもっと広い意味なのかはわかりませんが、今も上田に神畑という地名があるようで。
恐らく左京亮さんが聞いた手塚姓の方が自分と関係してそうですね
ここまで来ると実際に自分も行く&本家訪問&戸籍調査などを少しずつやろうと思っています
親などの記憶も掘り起こさねば。
かなり本家の墓は大きいらしく、また家にも何かのヒントや伝説があるといいのですが・・・

Posted by: 犬公 at 2007年09月04日 01:47

もともと取り留めのない内容のブログなので、手塚家のルーツのお話で盛り上がっていただいてもまったく問題ないです。

ちょっと調べて知ったのですが、手塚家の本家である諏訪下社の金刺家の由来は、奈良にあった都の名前だったのですね。山の辺の道は何度か行ってますが、気付いていませんでした。

http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/hokushin/houri.html

> 科野国造家のうち、欽明(きんめい)天皇に仕えた一族は欽明天皇の名前(かなさしのみやにいますすめらみこと) をもらって金刺(かなさし)氏と称した。

http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/kanasasinomiya.htm

http://www.begin.or.jp/sakura/miya10.htm

> 磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は欽明天皇の都の跡である。この天皇の十三年(552)に百済の聖明王から釈迦仏の金銅像一躯と経論若干巻とが我が国にもたらされた〈『日本書紀』)。

Posted by: taro at 2007年09月04日 20:24

太郎さん

金刺の由来については、おっしゃるとおりです。
「金弓」のとき磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の舎人となって
金刺舎人直の姓氏を号すと系譜に書いてあったと思います。

太郎さんのご先祖様は、武田に属していた可能性があるようですが、いつごろ
市川大野に住み着いたのかおわかりになりますか?

Posted by: 左京亮 at 2007年09月05日 07:59

祖父から聞いた話によれば、武田家滅亡の時に市川大野まで逃げて行って住み着いたとのことですが、本当かどうか分かりません。単に新天地を求めて移住しただけかもと思っています。本家に行って過去帳などを見れば詳しいことが分かるのかも知れません。
「金弓」とは何になりますでしょうか?

Posted by: taro at 2007年09月05日 18:53

太郎さん
金弓については、これをご覧下さい。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
神武天皇から出た多氏の一派が科野国造になって、さらにその中で
欽明天皇に仕えて、その居所を姓としたのが金弓ということになる
でしょうか。(金刺の祖)

市川大野に住み着いたとき、家紋を変えた可能性があると思います。
「丸に橘」というのは近隣に多い家紋ですか?
山梨居住の光盛の子孫と思われる家でも、「花菱」「五三桐」
「三つ銀杏」と分かれています。

犬公さん
神畑地区のことを小生に教えて下さったのは、地元の郷土史家の
方ですが、「光盛亡き後の残党狩りを恐れた一族が産川沿いに下って
きたのかなあ。」と言っていました。 水は灌漑の発展していなかった
当時はまさに生命線ですし、それに近い事情なのかも知れません。
あくまで類推ですが。。。

Posted by: 左京亮 at 2007年09月06日 07:56

金弓というのは人名なのですね。分からなかったです。ありがとうございました。

金刺金弓、ということになるのでしょうか。変わった名前ですね。

丸に橘が市川大野の近隣に多いかどうかは分かりません。僕の育ちは東京の日野なもので……。五月人形の家紋が丸に橘なので、記憶していたくらいです。

Posted by: taro at 2007年09月06日 23:53

>金刺金弓、ということになるのでしょうか。変わった名前ですね。

そういうことになるんでしょうね。自信ありませんが。(笑)
金弓君(かなゆみのきみ)なんて書いてある系図もあったと思います。
金弓の前の方々は読み方にも苦しみますよね。

我々の祖先が手塚太郎光盛だったとするとその前は諏訪下社大祝,その
前は科野国造,その前は神武天皇,その前はイザナギ,イザナミとなって
しまって、ほんまかいなという感じですが、そこまでさかのぼれちゃう
ということが面白いというか感動してしまいます。

一方、時の流れとともにどんどん忘れさられていく手塚の伝承などもあって、
だからなおさら手塚に関することを知りたいというか調べておきたいなあ
と思ってるんですね。 何の得にもならないこはわかっているんですが、
やりたいものは仕方ないですよね。「何でもやってみよう」ですもんね。(笑)

Posted by: 左京亮 at 2007年09月07日 08:14

「やってみよう研究所」のサイトも見てくださったのですね。ありがとうございます。

実は左京さんに教えてもらうまで、手塚家のルーツは出雲だと思っていました。
下社は全然違うのですね。

Posted by: taro at 2007年09月07日 23:10

上社祭神の建御名方は大国主(出雲大社祭神)の子と言われていますし、
下社の系図も神武天皇の皇子神八耳命からきていますから、全く関係ない
とも言えないと思いますが、いずれにしても雲をつかむような話ですね。
http://tsushima.homeip.net/ore/rhs/keizu.html

Posted by: 左京亮 at 2007年09月08日 14:15

壮大な図ですね……。

名前の上にマウスを載せると、どんな人物だったかの説明が出る系図があれば良いように思いました。

いつか全人類がひとつの系図で表される日が来るのでしょうか。そうしたら人類皆兄弟という意識が高まるでしょうか。

Posted by: taro at 2007年09月09日 01:05

>いつか全人類がひとつの系図で表される日が来るのでしょうか。そうしたら人類皆兄弟という意識が高まるでしょうか。

すごい話になってきました。(笑)
そうなると系図の一番最初は「ルーシー」とかいうヒトかしら?

Posted by: 左京亮 at 2007年09月10日 22:08

いえ、人類に限らず、他の生物まで含めた系図を目指したいものです。生命はひとつ。

Posted by: taro at 2007年09月10日 22:08

うおー、うーん、ふーむ、と唸るしかありません。(笑)

我々と光盛の年代差が800年強あって、1世代が25年とすると
30代ちょっとのご先祖様が間にいることになります。
30代遡れば、関係するご先祖様の数は2の30乗ということになって
なんと10億人を超えてしまいます。

当時の日本の人口って700万人~800万人位らしいですから、
これはどう考えたらいいんでしょう?
如何に複層的に重なりあっているかひとつの証拠のようなもの?

普段、他人と思っている人とも当人たちの知っている血縁関係が
わからないだけで、ルーツは同じだと考えて良いんでしょうね。
「人類皆兄弟」というのは、ただの標語ではなく事実を言っている
言葉なんですね。

Posted by: 左京亮 at 2007年09月11日 15:11

30代も経つとかなり系図が絡み合ってくるのでしょうね。

僕は当時いた日本人全員の血を引いていると考えるのは夢のある話ですが。

しかし日本の人口ってずいぶん増えたんですね。

Posted by: taro at 2007年09月11日 20:25

日本の人口推移がありました。

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1150.html

現代の人口増は異常ですよね。

日本人に限らず、文明諸国は好き放題やって、繁栄し過ぎなんじゃないでしょうかね。

Posted by: 左京亮 at 2007年09月12日 07:51

江戸時代初期と明治以降の伸びがすごいのですね。

江戸時代中期に停滞してしまっているのが不思議です。何があったんでしょうか。人口減ってますが。

> 江戸、大坂といった新たに誕生した巨大都市は、高い未婚率と衛生状態の悪さから人口のマイナス要因となっていた。

本当なんでしょうか。

Posted by: taro at 2007年09月12日 18:10


戦国時代から江戸前期の人口爆発があって、その増加を続ける
ための技術革新がなかったということなんでしょうかね。
大規模な灌漑や作物の品種改良とか。
安泰な世の中が続いて、民衆に退廃的な心理もあったんでしょうか。

今また減少に転じ、年齢構成も大きく変わろうとしているのは、
歴史的な転換期と言えそうですね。

Posted by: 左京亮 at 2007年09月13日 07:56

それでは現代の人口減少も、一時的なものかも知れないですね。また何かのきっかけで増加に転じるかも知れない。

しかし江戸時代には国勢調査もないでしょうし、人口が減っていることに気付いている人はほとんどいなかったのかも知れませんね……。

Posted by: taro at 2007年09月16日 00:38


個人的には、これ以上人口は増えてほしくないですね。

地球というパイがもたない気がして。。。

Posted by: 左京亮 at 2007年09月17日 07:31

僕も同感です。本格的に宇宙に進出できる時代が来るまでの間、人口が増えず、自然が残って欲しいものですよね……。

Posted by: taro at 2007年09月18日 00:50

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