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« 泣き上戸の人と飲みたいのですが。 | トップページ | あけましておめでとうございます。 » 2006年12月31日野外百人一首と美空ひばり館(その4)野外百人一首を終えた我々は当初からの予定通り、美空ひばり館へ。 ホテルのロビーのように豪華なエントランスを抜けて、展示のある二階に向かいます。 壁一面を埋め尽くすレコードのジャケットや雑誌の表紙。その間に埋め込まれたディスプレイでは、常時美空ひばり関連の映像を上映中。 美空ひばりが映画の子役としてデビューしたというのは知っていたのですが、その後、時代劇にたくさん出ていた時期があったようで、そういう背景を知らなかった僕としてはちょっと不思議な印象を受けました。ミュージカル映画という感じでもなく、単なる時代劇。稀代の歌姫なのにもったいない!というのは勝手な押しつけでしょうか。女優としても優れていたのかも知れません。 閉館前の最後の週末ということでものすごく混んでいたのですが、車いすのおばあちゃんたちがたくさん来ていたのが印象的でした。ビデオの前で何度も再生ボタンを押して、往年の名曲を聴いていました。ものすごく懐かしく切ない気持ちになっているのではないかと思いました。こういう「高齢者の遊び場」のような場所は、もっと全国に出来てもいいような気がします。大阪の新世界に通じるものを若干感じました。 美空ひばりは戦後間もない昭和21年、9歳で初舞台を踏み、昭和24年に「悲しき口笛」で映画デビュー。その主題歌は戦後の復興期、人々に広く親しまれました。昭和35年には「哀愁波止場」でレコード大賞歌唱賞を受賞。同時に銀幕のスターとしても活躍。白黒の時代劇です。この時期、雑誌「平凡」の歌手人気投票では12年連続1位を獲得。代表曲「柔」を発表したのはそれより後、昭和39年。その後、「悲しい酒」「真っ赤な太陽」と続きます。昭和50年代にはヒット曲には恵まれなかったものの、ポップスやジャズにも進出してレパートリーを広げ、さらには舞台を中心に精力的に活動を続けていました。しかし、最大の理解者でありプロデューサーでもあった母、二人の弟、親友の江利チエミが相次いで亡くなり、寂しさを紛らわすための酒とたばこの量が増し、急速に体を壊していったそうです。 昭和62年、公演先で倒れ、数ヶ月の療養。翌昭和63年には東京ドームのこけら落とし公演として「不死鳥コンサート」を行い、ファンに復帰をアピール。けれどステージの裏ではベッドと酸素吸入器が用意されていたとか。 明けて平成元年、自らの人生を歌い上げるかのような「川の流れのように」が大ヒット。その年の六月、昭和を代表する歌姫は五十二歳の生涯を閉じました。
生きることは 旅すること
地下のおみやげ売り場には椅子のたくさん並べられたステージがあり、大画面のスクリーン上でコンサート映像が上演されていました。四十代くらいの時の舞台でしょうか。とにかくパワーに満ち溢れていて、人生にエールを送ってくれる感じです。 ステージトークではかつて共演した男性俳優の名前を挙げて、 「誰々さんも何々さんも、お腹が出てきていいおじさんになってきていますけれど。ひばりは皆さんから元気をもらって、ますます若く!」 とか言ってました。 スクリーンの前の席は、おじいちゃんやおばあちゃんたちによって埋め尽くされていました。 kogeさん情報によると、美空ひばり館が閉館するのは人気が無いからではなく、レンタルしていた衣装などを返却する期限が来たからだそうです。だとしたら、なおさら残念な気もします。 入館時に渡されたパンフレットに書かれていたキャッチコピーは、 「ともに泣き、ともに笑った いくつもの思い出がよみがえる。」 何の思い出も無いのですが、それでも良い場所でした。 あとひとつ、嵐山で見ておきたい場所といえば、「嵐山モンキーパーク」でしたが、これは雨のため次回にまわすことにしました。kogeさんやさとっちさんのお奨めで、山頂まで上がるとちょうど猿に囲まれて人間が観察されるような形になるとか。kogeさんは3回行ったことがあるそうです。次に嵐山に来た時に立ち寄りたいと思います。 西院まで移動して、最後の締めのカラオケ。誰も来てくれず、僕ひとりで行くことになるのではと心配していたのですが、可知さんとさとっちさんが来てくれました。加えて、KGCのmoritamaさんが合流。四人でカラオケ。 「川の流れのように」「柔」「愛燦燦」「真赤な太陽」など、美空ひばりの名曲の数々を熱唱。意外と皆さん、歌えるものです。 すべての予定を貫徹し、めでたく解散したのでありました。 Posted by taro at 2006年12月31日 14:04 |
コメント
どうもありがとうございます。
Posted by: taro at 2007年03月30日 21:10





