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2005年11月18日
四国でお遍路さんを接待する。(土佐東寺庵訪問記) 前半
京都の東寺の横に、東寺庵という安宿がある。
一泊二千二百円。相部屋、風呂無し、朝食付き。
アジアの大都市には必ずこういったバックパッカー向けの安宿があるが、実は日本にも結構存在している。観光客の多い京都には特に多いが、その中でもここ、東寺庵は宿泊者間の交流が盛んで、様々な国から来た旅行者や地元の若者が出入りし、楽しい場所である。
東寺庵のオーナーである蜷川さんは京都駅のすぐ南に広い土地を持ち、家賃収入で暮らしている財産家であるが、その有り余る財産を使って変わったことをするのが好きな奇人である。蜷川さんに言わせると、東寺庵は彼の「時空間芸術」というジャンルの作品らしい。
僕は五年ほど前に蜷川さんが趣味で選挙活動していたのに出くわし、一日だけ手伝わせてもらって以来の付き合いである。
最近、東寺庵を訪ねると、スタッフである龍馬くんから、高知にできた東寺庵の支店の話を聞かされた。四国八十八ヶ所巡りの道沿いで、お遍路さんを接待しているという。
「お遍路さんってゆうのはつまり、肉親と死別したり、深い悩みがあったりして、四国をまわってる人やね。白装束を着て、同行二人、つまり弘法大師と一緒に長い道のりを歩いている。先生はそういうお遍路さんたちを手助けしたいってことで、土佐東寺庵を建てたわけ」
龍馬くんは四国の高松出身、現在は東京の大学に通う学生のはずだが、いつも京都にいる。授業に出ている気配はまったくなく、東寺庵が住居兼、職場のようになっている。もともと安宿という空間が好きだったらしく、大学進学で上京した際、下宿を借りる代わりに安宿に寝泊まりし、そこから学校に通っていたそうだ。
そういう宿の代金はだいたい一泊二千円前後。つまり一ヶ月なら六万円程度。東京の家賃の相場とそれほど変わらない上、知り合いもできやすく、考えてみればいくつかのメリットもあるのだが、大学に入ってすぐにそういう生活を始めてしまうというのは、なかなかの変人ではないかと僕は思う。
そんな龍馬くんが「先生」と呼ぶ人は、蜷川さんである。
「八十八ヶ所には険しい道もあってやね。お遍路さんは皆、行き倒れになっても葬式を出してもらえるだけのお金を肌身離さず持ち歩いてる。つまり、死を見つめながら歩いているゆうことやね……」
龍馬くんの話は若干オーバーなところものだが、聞いているうちに、いつしか興味を持たされてしまう。なかなかのストーリーテラーである。
最近はバスや車、あるいはタクシーでまわったりするお遍路さんも多いようだが、自分の足だけを頼りに四国を一周する人たちもいて、彼らは特別に「歩き遍路」と呼ばれている。
彼らを接待するために、四国には「ご接待所」と呼ばれる場所があちこちにあった。地元の有力者や篤志家が無償で食事や宿泊施設を提供していたそうだ。ところが残念なことに、そういった場所が最近著しく減ってきている。さらに追い打ちをかけるように、NHKが数年前にご接待所を全国ネットで紹介したため、日本中のホームレスが四国に集まってきてしまい、接待所は激減したそうだ。
そんな状況にあって、蜷川さんたちは土佐東寺庵を設立した。接待所が無くなりつつある今こそ、そういった場所が求められるというのである。
そもそも東寺庵は四国とは少なからぬ縁がある。
名前の由来である東寺は、弘法大師が発展させたお寺である。蜷川さんの家も東寺と縁が深く、室町時代には東寺の財産を管理していたこともあるとか。
そしてお遍路さんが歩く道、四国八十八ヶ所を開いたのもまた、四国出身である空海であった。
さらに蜷川さんに言わせると、空海は「元祖バックパッカー」なのだそうだ。何かを求めて旅を続けるというのはまさしくバックパッカーそのもの。たとえ時代は違えども、精神は同じなのだそうだ。
そんなわけで、四国八十八ヶ所沿いに東寺庵の別館を作り、お遍路さんをもてなすというのは蜷川さんの長年の夢だったらしい。その夢がようやく実現したというわけだ。
東寺庵に行くたびにその話を繰り返し聞かされていたため、僕も若干興味を持たされてしまった。
かといって四国に行く機会など長らく無かったのだが、この夏、研究室の合宿が小豆島で行われたため、結構接近した。
この機会を逃したら二度と行くことはないかも知れないと思い、足を伸ばすことにした。
小豆島にて研究室の皆さんと別れ、フェリーに乗って高松に向かう。
再開発の進む高松港から列車に乗り、一路、南へ。
想像していたより四国は広く、半日がかりの移動になってしまった。
瀬戸内の浜辺を走り金比羅さんの麓を抜け、大歩危小歩危の渓谷を越え、高知駅前の寿司屋で鰹の巻き寿司を食い、土佐くろしお鉄道の起点である窪川という駅に着いた時には、すでに夜の九時をまわっていた。
土佐くろしお鉄道は昔は国鉄の路線だったのだが、分割民営化後に切り離され、今は独立した株式会社として運営されている。四国の突端に突き出していて、いかにも経営の苦しそうな路線である。まるでとかげが尻尾を切るように、JRは窪川より先の路線を切り捨ててしまったわけだ。
駅前の商店街はがらんとしている。寂しい駅だ。
参考のため、これから先に出てくる駅の名前を書いておく。東から順に、高知・窪川・上川口・古津賀・中村という順に並んでいる。中村の南には、四国最南端の足摺岬がある。中村市は最近、四万十市に名称を変えた。日本最後の清流、四万十川の河口を抱く町として有名である。
土佐くろしお鉄道の改札に向かうと、階段を下りたところに作務衣を着た見覚えのある中年男性が立っていて、「よぉ」と声をかけられた。
ちょっと驚いた。
東寺庵のオーナー、蜷川さんであった。
「何してるんですか、こんなところで」
「今日来るっていうから、待ってたんだ」
実は、直前まで行くということを決めていなくて、小豆島から昼頃に電話を入れただけなのだが、駅まで迎えに来てくれるとは。
それほど歓迎されているとは思わなかった。
「すいません、わざわざ迎えに来てもらってしまって……」
「今から京都に帰るんだけどね」
迎えに来たのではなく、窪川駅発の夜行バスに乗って京都に帰るところだという。
それでも僕と会えるよう、早めに来てくれていたそうだ。
蜷川さんはいつも東寺庵で見かけるのと同じ、薄青の作務衣を着ている。駅の構内で見ると、かなり怪しげだ。
列車の発車まで少し時間があったので、連れだって駅舎を出た。
一応、商店街のようなものはあるが、一軒も営業しておらず、明かりは街灯の光だけである。
「窪川も寂しくなったねー。三年前はこんなじゃなかった」
腕を組みながら、蜷川さんはつぶやく。
「三年前からここに来ていたんですか」
「うん」
典型的なシャッター商店街。
今まで感じなかった心細さが、次第に僕の心を捕え始める。
「列車、もうじき出発するんじゃないか。乗っておこうか」
蜷川さんが言って、僕らは土佐くろしお鉄道に乗り込んだ。出発の時刻まで、僕と喋るつもりのようである。
「今、土佐東寺庵には誰かいるんですよね」
「それは大丈夫。龍馬くんもいるし」
台風の接近で一時的に京都に退避していたらしいが、数日前に戻ってきたとのこと。
現在、龍馬くんの他にも何人か泊まっているらしい。
「駅からはどうやって行ったらいいんですか」
「道沿いに歩けばわかるよ。砂浜の真ん中に、ぽつんとあるから」
「砂浜の真ん中にぽつんとですか」
「朝起きたら感動するよ。こんなところにあるのかーって」
今のところお遍路さんを泊めることはまだ行っていなくて、昼間に接待をしているだけだそうだ。宿泊所として機能させるためにはたくさんのスタッフが必要で、簡単には実現できないようである。
「周辺の見所は何ですか」
「海が見えるよ。それから鯨」
「鯨は沖に出ないと見えないでしょう」
「いや、見えるんだって」蜷川さんは譲らない。
「お遍路さんのルートを歩いてみようかな。一番近い札所までどれくらいあるんです?」
「そこにもあるよ」と言って、駅の外を指さす。
「窪川に? 土佐東寺庵からはちょっと遠くないですか」
列車で四十分ほどの距離だ。
「遠くないよ。みんな歩いてくるんだって。一日がかりで」
「窪川と土佐東寺庵の間には札所は無いんですか」
「無いね」
「じゃぁ、反対側は?」
「足摺岬の向こうにある」
「めちゃめちゃ遠いじゃないですか」
「歩いたら三日がかりだね」
「すごすぎ」
「歩けるよ。やってみ。学生とか、よく歩いてるよ」
そりゃ、歩ける人もいるかも知れないが、三日間もひたすら歩き続けるというのは、体力とは別な力が必要とされるような気がする。蜷川さんは最近、修験道にはまっているとかで、奈良の大峰山を三日がかりで踏破していたりする。そんな感覚で説明されても、こちらはついていけない。
「そうすると、窪川と足摺岬の間にはお遍路さん用の宿がたくさんあるってことですか」
「いや、無い」
「それじゃお遍路さんはどこに泊まるんです?」
「そのへんの海辺で野宿よ」
「野宿!」
「歩き遍路はみんなそうだぜ」
お遍路さん、思っていたより、根性が必要とされるようだ。そんな話を聞かされると、ご接待にも身が入るというものだ。
「それじゃ、楽しんできてな」
蜷川さんは僕の肩をポンと叩いて、車両から出て行った。
列車は九時半に窪川駅を発った。
ワンマンカーで、乗客は僕ひとり。運転手さんは終始無言。
途中から四人連れのおじさんたちが乗り込んできて賑やかになったものの、真っ暗な闇夜の中を走っていくことには変わりない。
四十分走って、土佐上川口駅に着いた。無人駅である。
照明はホームにひとつだけ。
駅に面した斜面には墓場があったりする。
蛙が騒がしく鳴いている。
電灯から少し離れると、自分の足下すら見えない。
雨ざらしの階段を降りた。
幸い、畦道に沿って民家が並んでいた。
とにかく人が暮らしていることを知って、胸を撫で下ろした。
居間にテレビがついていたりするのが見えると、なぜか安心する。
二分ほど歩いて、国道に出た。
トラックが音を立てて走り抜けていく。
予想以上の通行量に驚かされる。
僕の他には歩行者などいないため、車の速度がものすごく速い。その横を小さくなりながら歩いた。
川を渡った。長さ五十メートルほどの橋が架けられた、細い川である。
蜷川さんがこの場所を土佐東寺庵の場所として選んだことには、川の名前も影響していそうだ。なにしろ、「蜷川」という名前の川なのだ。単なる偶然か、あるいはこのあたりに昔、京都の蜷川家の領地でもあったのだろうか。よく分からない。
石材置き場のような敷地の前で、犬が吠えまくっていた。
そろそろ心細くなって、土佐東寺庵に電話をかけた。龍馬くんが出た。
「今、国道を歩いてるんだけど。どのへん?」
「そのまままっすぐ歩いてくると、道に沿って赤い旗がいっぱい立ってるわ。南無大師遍照金剛とか、いろいろ書いてある」
波の音がすぐ近くで聞こえる。
道の先は海だ。
カーブを曲がると、人影が見えた。
「手塚くん、こっちやこっちや」
言いながら、人影は近づいてくる。
街灯に照らされた龍馬くんは、蜷川さんと同様、作務衣姿だった。
「よぉ来たねぇ。これが土佐東寺庵や」自分が出てきた建物を指さして言う。
外見はごく普通の民家であった。
僕が勝手に想像していたお遍路さん歓迎専用施設とは、だいぶ違う。
蜷川さんが言っていたような、砂浜の真ん中にぽつんと立つ小屋ではもちろんない。
コンクリート塀には二十本近い幟がくくりつけられている。
赤や青の幟に白抜きされた、お経のような文句。
南無大師遍照金剛。あるいは南無観世音菩薩。
「分かりやすいやろ」
「ちょっと驚いた。すごいところにあるんだね」
僕が何よりびっくりしたのは、接待所が国道に直接面していることだ。車がものすごい速度で軒先を走り抜けていく。見ているだけでハラハラするくらいだ。こんな場所で落ち着いて接待などできるのだろうか。
「もっと静かなところかと思ってた」
「いや、先生はよく考えてこの場所にしたんや。もう三年も前から計画してるしな」
蜷川さんの分析によれば、この場所は山と海に挟まれて国道一本しか走っていないため、歩き遍路は必ずこの場所を通る。だから、確実に接待できるのだ。町の中だと様々なルートがあるので、歩き遍路が接待所に気づいてくれるとは限らない。ここなら歩き遍路が海の中や山の中を歩かない限り、必ず目の前を歩いていくことになる。逆に、バス遍路であれば、ぴゅっと通り過ぎてしまう場所である。

蜷川さんはバス遍路には興味が無いため、あえてこの場所に接待所を作ったのだという。
明るく照らし出された大きな机の上には飴やらスナック菓子やら。大量のお菓子が所狭しと積まれている。
「食べていいよ」と龍馬くん。
夜中に食べるのは良くないと思いつつ、さっそくつまんでしまう。
接待所は夜の間はシャッターを閉められるようになっているようだが、僕の訪問を待っていたためか、国道に向かって開放されていた。
その隣の大師堂は、弘法大師を奉る部屋である。
四畳半ほどの部屋に仏具が所狭しと並べられ、壁には四国の地図や東寺のポスターが貼られている。


「ここで護摩を焚くと、お遍路さんはすごく喜ばはんねん」と龍馬くん。「大峰山で高ぉ金払て護摩焚いてもらうより、こっちの方がずっと嬉しいって。ここは儲けやないからねぇ」
自慢げに言う。
土佐東寺庵のスタッフには京都のお寺で然るべき修行をしたお坊さんもいるらしく、接待を手伝ってくれているそうだ。蜷川さんから土佐東寺庵の住職になるよう強く薦められているのだが、断っているという。
僕らは接待所の畳に腰を下ろした。
「いつもお菓子でもてなしているわけ?」
「そやね。だけどここは港も近いし、魚を買ってきてもてなすこともある」
接待所とその周辺の建物を案内してもらった。国道沿いの細長い敷地に建物が並んでいる。
「ここが接待所で、隣が大師堂。奥がスタッフ用の住居。そっちが倉庫」
東から順に、風呂とトイレの建物・スタッフ用住居・大師堂・接待所・来客用寝室・倉庫という順序で並んでいる。大師堂と接待所と来客用寝室はひと繋がりの建物で、おそらく大きな納屋か何かを三つに区分したものではないかと思われる。
僕が泊まるのは来客用寝室で、接待所とは薄い板一枚で仕切られている。土間から一段高くなった床の上にはゴザが敷かれ、押入の中には布団が何組かあった。
天井が低く、まともに立ったら髪の毛が触れてしまう。
一方、龍馬くんたちが泊まっているスタッフ用住居はごく普通の民家である。一階には台所兼食材置き場と、畳敷きの居間の二部屋がある。
その居間で、現在のスタッフを紹介された。四十代くらいの中年男性と、二十代くらいの女の子。
「はじめまして」
「あ、どーも」
「こんにちわ」
中年のおじさんは北国さんといって、岩手からやってきたそうだ。学生の頃、お兄様が蜷川さんの同級生だったらしい。北国さんはお兄さんと同じ建物に下宿していたため、蜷川さんが兄を訪ねてきて不在だった時には、その向かいにある北国さんの部屋に来て、だべっていたりしていたそうだ。蜷川さんとはもう二十年以上続く仲ということになる。
女の子は帆保江ちゃんといって、東京の吉祥寺の出身。現在の仕事は保母さん。二十三才。京都の東寺庵に滞在していたところ、蜷川さんに「高知に行かない」とスカウトされ、来てしまったという。いつの間にかこの場所が気に入って、いつか八十八ヶ所巡りをしてみたいとまで思っているそうだ。
二人が来たとりあえずの目的は、土佐東寺庵の建物にペンキ塗りをすること。外での仕事は北国さんが行い、帆保江ちゃんは炊き出しをするという。
まだ夕食中だったので、混ぜてもらう。
刺身、ご飯、それからみそ汁。刺身は非常にうまい。近所で買ってきたのだという。
「今朝、お遍路さんを接待したんですよ」と帆保江ちゃんが言う。「そのあと何度か中村まで買い物に出かけたんですけど。そのたびにその人とすれ違って。うわー、まーだ歩いてる!とか思って」
道がひとつしかないので、車もお遍路さんも同じところを通る。中村までは車で三十分の距離だから、歩いたら半日かかるだろう。帆保江ちゃんは車というものの便利さを実感しただろうか。
食後、北国さんが部屋の奥から大きなプラスチック容器入りの焼酎を持ち出してきた。酒好きのようである。それでも、少し酒が入ると顔が真っ赤になった。
お遍路さんを巡るいろいろな話を聞かせてもらった。
今まで彼らが接待したお遍路さんのうち、半分くらいが肉親との死別、もう半分が会社を定年退職し、思うところあって歩いている人だという。その他、会社を倒産させてしまい、懺悔の気持ちで歩いている人もいたそうだ。
さらにすごいのは、死のうとして来ていた人の話。
スタッフのひとりである桃本さんが足摺岬のあたりをドライブしていたところ、ぼろぼろの服を着て歩いている若い男性がとぼとぼ歩いていた。
「何してんのや」と聞いたら、「死のうとしている」と答えるので、慌てて土佐東寺庵に連れてきて、スタッフとして働かせているうちに、彼は次第に生き甲斐を見出せてきたらしく、無事に実家に帰っていったという。その後、彼のお姉さんから土佐東寺庵宛でお礼の手紙が届いたという。
その他、警察から逃げている犯罪者がいるという話とか、何度もまわりつづけているうちに、精神的に四国から出れなくなってしまう人がいるとか。これらは直接出会ったわけではなく、四国のお遍路さん通の間で語り継がれている話らしい。都市伝説ならぬ田舎伝説である。
北国さんが突然、声のトーンを落として言った。
「四国に来てさ、ここは生きてる世界じゃないな、って思ったねぇ」
「生きてる世界じゃない?」
「ああ、それは僕も思いました」と龍馬くんが賛同する。
「どういう意味ですかそれは」
「ほら、一生に一度はお伊勢さんに行きたいって言うでしょ。東北の人間もね、お伊勢さんには行きたいって言う。だっけど、お遍路なんて行きたかねぇって言うよ。なんか暗い感じがあるねーぇ」
「そうなんですか。逆に僕は青森の恐山とか、怖い場所というイメージがありますけど。あれは怖くないんですか」
「あっれは怖いことなんかねーぇもん。恐山は神聖な場所だよ」
僕が首を傾げると、龍馬くんが代わりに応じた。
「たしかに、四国ってのは死に関連するイメージがありますね。お遍路さんが白装束を来ているのは、いつでも死ぬ覚悟ができているという意思表示ですしね」
ところが逆に、吉祥寺生まれの帆保江ちゃんのおばあちゃんに言わせると、四国のイメージは明るい。帆保江ちゃんはいろいろ思い悩むところがあって保母さんの仕事を休み、京都まで旅に出てきたそうだが、東寺庵と出会い、蜷川さんに誘われて四国まで来ることになってしまった。その話をおばあちゃんに聞かせたところ、「それは転機に立った人が行くところだよ」と背中を押されたという。
「四国に行こうって考える時点で、それは神様に守ってもらっている。四国は神様がいる方向だからね。逆に、富士の樹海に行ってしまう人は、神様に守られていないんだよ。そっちは神様がいないから」などと言われたそうだ。
東京の吉祥寺では、四国は高く評価されているようである。
「お遍路さんって、地元の人は少ないんでしょうか」僕はふと思って聞いた。
「低いだろうね。知り合いとかと会ってしまうかも知れんし」
「龍馬くんは高松の出身だよね。お遍路さんとか、する気ある?」
「無いなぁ。絶対に知り合いに会うと思うしな」
四国話はまだまだ続きそうだったが、翌朝は早くに起きるつもりだったので、午前一時頃、お暇を願って寝室に移動した。
スタッフ用住居から接待所に向かうのにも、車がびゅんびゅん行き交う国道の脇を歩かなくてはならない。
夜中、トイレに行こうとして轢かれたりしたら、お話にもならない。
布団の上に寝転がって眠ろうとしたものの、窓のすぐ外が国道のため、夜中でも車がものすごい速度で走りすぎていく。蒸し暑いからといって窓を開けてしまえば、僕の姿は国道にさらされているようなもので、防犯対策も何もあったものじゃない。さらに、部屋のすぐ前を二トントラックが猛烈な速度で走ってたびに、びくりとしてしまう。風圧も感じる。窓がガタガタ揺れる。そのたびに驚かされて、とてもじゃないが寝られたもんじゃない。
それでも半眠りでうとうとしているうちに、昼間の疲れからか、やがて眠っていたようだ。
朝。大きめの話し声で目が覚めた。軒先で誰かが喋っているのが聞こえる。
外はもう明るい。しかし、小雨が降り続いているため、それほど爽快感はない。
家の前を車が水しぶきをあげて走り抜けた。のどかな海辺の朝と呼ぶにはほど遠い。
蜷川さんの昨夜の説明を思い出す。いったいこれのどこが「砂浜の真ん中にぽつり」なのだ。



窓の外を眺めていると、坊主頭のおじさんが目の前を歩いて行くのが見えた。先ほどの話し声の主だろう。
僕は寝ぼけ顔をこすって寝室を出て、道路に面した蛇口で顔を洗った。
海は灰色の空の下でどんよりと広がっている。
坊主頭のおじさんは接待所で龍馬くんと話をしていた。
年齢は六十代くらいだろうか。角張った顔は頑固そうな印象を与える。「大師堂で服とか干したらいかんよ」と龍馬くんに注意している。実はその服は僕が昨夜、干したのである。屋外では車の排ガスで真っ黒になりそうだったので、中に吊しておいたのだ。おじさんに謝って、別の場所に移動させた。
おじさんは胡麻塩さんといって、お遍路をしつつ、接待所の手伝いなどをして暮らしている人らしい。
「阿波池田まで行っとったんじゃけど、車のご接待を受けて。こちらに戻ってくるのにもう少し時間がかかるはずじゃったけど、早く着いてしまった」
「車のご接待?」
「車に乗せてもらったということ」
なるほど。ヒッチハイクか。お遍路さん用語では「車のご接待」と呼ぶらしい。
「昨日は窪川の岩本寺まで行って、ガレージ泊めてもらって。電話かけようかと思ったけど、電話代がなかったから、直接来ちゃえと思って朝歩いてきた。それでみんなまだ寝てたから、ここで待ってたんですよ」
もちろん、携帯など持っていないわけである。
「ちょっと読経するわ」と言って、太子堂に入り、お香を焚いた。チン、と鐘を鳴らし、低い声で朗々とお経を唱え始めた。

僕らはスタッフ用住居にて、帆保江ちゃんが作ってくれた朝食を食す。ご飯とみそ汁と一品。
食後、胡麻塩さんがお経を唱えている横で、「庵の思い出」というノートをめくる。ぱらぱらと読んでいくと、一日三件ずつくらい書き込みがある。どれもお遍路さんたちが書き込んでいったものである。一部抜粋すると、たとえばこんな感じだ。
8/24 足が痛くて痛くて、たまらず、お世話になりました。ほんとうに助かりました。ありがとうございました。 東京都新宿区 M
8/18 ほんの少しのつもりが、小一時間も居てしまいました。今日が自分の誕生日だと知った時はショックでした。お茶がたいへんおいしく、何度もおかわりしてしまいました。どうもごちそうさまでした。 茨城 A
8/28 いろいろなお接待ありがとうございます。これを糧にまた歩きます。 愛知県 K
8/4 おいしい焼きソバごちそう様です。二日ぶりにまともな食事ができたかな。これでまたがんばれそう。あ、もう五時だ。色々ありがとうございます。 東京都杉並区 N
土佐東寺庵、かなりの数のお遍路さんに感謝されているようである。
接待所の外に出て、建物の写真を撮影した。
コンクリートの護岸に立って、海を眺める。
岩場に打ち寄せる波は荒く、空は薄曇り。
穏やかなイメージのある太平洋も、天候によっては荒々しい牙を剥くようだ。
海から山に目を移すと、土佐東寺庵の裏手は小高い丘に連なっていて、建物のすぐ後ろまで森が迫り出している。山海に挟まれた狭い空間を、国道が窮屈そうに走り抜けている。
おそらく何百年も昔からお遍路さんはこの道を歩いてきたのだろう。国道が作られる前はもっと細い道だったのではないか。あるいは道などなくて、それこそ岩場にへばりつくようにして歩かなければならない、難所のひとつだったのではないだろうか。


国道の東の方から、雨の中、大きなバックパックを背負った若いお兄さんが歩いてくるのが見えた。片手に杖、もう片方の手で傘を差しながら、国道を歩いてくる。
地元の人かなと思って見ていると、接待所から出てきた龍馬くんに声をかけられ、吸い寄せられるように接待所に入っていった。
僕もすぐさま接待所に戻った。
一人目のお遍路さんの登場である。
菓子に囲まれた畳に腰を下ろし、「いやー、ありがたいです」と礼を言って、龍馬くんに渡されたお茶をうまそうに飲む。

黒いタンクトップに短パン姿。歩きやすそうな格好だ。荷物は大きい。寝袋と保温シートを丸めて、バックパックに縛り付けている。装備は万全に見える。
「焼きそば食います?」龍馬くんが尋ねる。
「え、いいんですか?」
龍馬くんは接待所の奥からカップ焼きそばUFOを取り出し、お湯を注ぎ始めた。
「今までカップ麺を出してくれる接待所とか、ありました?」
「無かったですよ」と笑う。
「接待所って、ここの他にもたくさんありましたか」と僕。
「どうなんでしょう。僕の持っているガイドブックがしょぼいんで、よく分からないです」
お遍路さん向けのガイドブックというのが何冊か出版されているようである。
「お遍路をされるきっかけは、何かあったんですか」龍馬くんがさらりと尋ねた。
「いやぁ……」と頭を掻きながら、「いろいろなしがらみから解放されたくって」
「しがらみ」
「ええ。いろいろ。あ、ありがとうございます」頭を下げて、お遍路兄さんはカップ焼きそばUFOを受け取った。
「いつから歩いているんですか」
「昨日からですけど、実は二年前にも一度歩いたことがあって。その時は二週間歩いて、三十七番まで来たんです」
三十七番というのは、土佐東寺庵の手前、窪川にある岩本寺というお寺のことだ。土佐東寺庵は三十七番と三十八番の札所の間に位置している。
「その時はどれくらいかかりました?」
「二週間くらい」
「ずっと歩き続けたんですか」
「ええ」
お遍路兄さんはかなりがっちりした体格をしている。彼ならたしかに何日間も歩き続けられるかも知れない。
「十月だったもんで、ガクガク震えながら野宿してましたよ」と、懐かしむように言う。
「今回はどれくらいまわられるんですか」
「あと二週間」
「全部、まわりきれるんじゃないですか」
「いや、たぶん無理」
「普通、一周するのにどれくらいかかるんですか」
「二ヶ月くらいかな」龍馬くんが代わりに答えた。
「そんなものでしょうね」お遍路兄さんも応じる。二週間を二回で、全体の半分をまわって。彼はこの後も、人生の節目ごとに四国に戻ってくるのだろうか。
「ここはどうやって知ったんです?」
「偶然です。さっきそこを歩いていたら、無料接待所っていう看板が見えて」
蜷川さんのロケーション選定は間違っていなかったようだ。
お遍路兄さんの出身は千葉だが、現在は京都の立命館大学で学生をしているという。
「今は五回生です。単位はもう揃ったんだけど」
「それなのに、卒業していない?」龍馬くんが驚いたように言う。
「ええ。ちょっといろいろ考えてみようかなって思って」
「大学では何を勉強しているんですか」
「心理学です」
「さすが。自己探求ですか」
「いや、そういうのじゃなくて。実験心理学です」
つまり、人間がボタンを押す反応速度の計測とかをしているということか。
それはそれで一種の自己探求だろう。
焼きそばを食い終わったお遍路兄さんは立ち上がり、「それじゃ、これ」と言って、短冊くらいの大きさの白い紙札を龍馬くんに渡した。
「どうも」と受け取って、お菓子を並べた机の上に置く。すでに何枚かの札が重ねられていた。
接待所の外に出て、お遍路兄さんを見送った。
彼はこれからまた一日歩き続けるのだ。いや、次の目的地に着くまで三日かかるのだ。
すごい根性である。
「学生さんがこうして来てくれるってのは、嬉しいな」と龍馬くんがつぶやく。
「でも、結構くわしく自分のことを聞かせてくれるもんだね」
「いろんな人がいはるよ。来た途端、堰を切ったように話し始める人とか。『もう何日も人と話してないんです』、とか言って」
僕はお遍路兄さんが置いていった札を手に取った。
「この札、何」
「これはお遍路さんが置いていく札や。ほら」
龍馬くんは接待所の庇を指さした。見れば、たくさんの札が庇いっぱいに打ち付けられていた。

「ひとり何枚も持ち歩いていて、札所にも渡すし、ご接待に対する感謝の印としても渡していくわけやね。今までに何周したかによって、札の色が変わるわけ」
なるほど、庇に貼られた紙札はほとんどが白だが、緑が三枚、赤が二枚ほど混じっている。
「緑が五回以上。赤が十回以上だったかな。その上に金とか錦があるんだけど。どんな感じでしたっけ?」
龍馬くんが胡麻塩さんの方を向いて尋ねた。
僕らがお遍路兄さんと話している間ずっと、胡麻塩さんは玄関前に並べられた花壇の手入れをしていたのだ。
「一~四回が白。五~九回が緑。十~二十四回が赤。二十五~五十回が銀。五十~百回が金。百一回以上が錦」
すらすらと答える。
「百回まわった人って、全部歩いてまわったってことですか?」
「まさか。一回まわるのに二ヶ月近くかかるんだから、一年でも六回が限度でしょ。百回まわるには十六年もかかる。そればっかりしていたらできるかも知れないけど、さすがにいないでしょ、そんな人。バスとかですよ」
「でも、バスで百回まわるってのもすごいですよね」
「観光ガイドさんなら、それくらいまわれる」
「なるほど。ガイドさん限定だ」
「ほら、これがそれ」スーパーのビニール袋に入れられていた札の束から錦の札を取り出した。「これは胡麻塩さんがもらってきたものだけどね」

「錦の札は交通安全のお守りとして価値があるんじゃ。それだけ長い間、事故無しに回れたって意味でね」
奇妙な縁起を担ぐものである。
札には一枚一枚、残していった人の名前が書かれている。
倉敷市から来た三十一才の女性の札があった。
僕が見せると、龍馬くんが神妙な顔をして言った。
「女の人でこの世代って、めっちゃ多いねんで。大企業でキャリア積んで、堅実に働いてきて。三十代になって、突然辞めて。お遍路してるって人がかなり多い。なんでか分からんけどね。男性は定年退職後の人が多いけどな」
女性の方が悩みは多いということだろうか。
軒先で静かな雨音が聞こえる。
しばらくの間、誰もやってこない。
接待所の前に水たまりができてしまっているため、車が通るたびにばしゃりと窓に水がかかる。その音に時折驚かされるだけである。
スタッフ住居のパソコンをダイヤルアップで繋げて、ウェブメールなどを見た。
ここはブロードバンドが引けない地域らしい。
だが、ダイヤルアップの遅さもあまり気にならない。海辺の小屋では時間がゆったりと流れていく。
Posted by taro at 2005年11月18日 23:59
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