宇宙論
昔からの知り合いであるEさんが久々に京都に遊びに来て、東寺横の安宿に泊まっているというので会いに行った。安宿は東寺庵といって、外国人の貧乏旅行者向けの宿だが、なぜか発泡酒が無料で振る舞われ、毎晩のように飲み会があり、いつしか宿泊者同士が仲良くなっている面白い宿である。
初夏なのに出しっぱなしになっているコタツに入って、Eさんは福祉関係の仕事をしている女の子とまったりお話していた。ぼくもこたつに入れてもらい、話に割り込んだ。そしていつしか遠い宇宙空間の話になっていた。
「Eさんって大学院では宇宙論を研究していたんですよね」
「ええ」
「どんな感じなんですか、宇宙論の研究って」
「アインシュタイン方程式というのがあって、G_μν=T_μνと書くのだけど、これが宇宙のすべてなんです」
「それがすべて?」
「ええ。もちろん場の量子論や重力の量子論も考えなくちゃならないんだけど。少なくともこれが場の古典論の究極」
「じーみゅーにゅー・いこーる・てぃーみゅーにゅー、ですか」
「左辺が曲率テンソル、つまり時空の歪みを表していて、右辺はエネルギー運動量テンソル、物質の存在を表す。物質と時空は別物のように思うかも知れないけど、実はひとつであって、物質がなければ時空も存在しない。どう、すごいでしょ」
「はぁ、ええ」
「アインシュタイン方程式は重力に関する方程式なのだけど、宇宙的なスケールになると重力が支配的なのでこれで十分。重力以外の力にはプラスとマ
イナスがあるでしょ。だから粒子がたくさん集まると相殺しあって無視できる。重力だけプラスとマイナスが無いから、集まれば集まるほど大きくなっていく」
つまり電磁力とか化学反応とか、地上における人間の諸々の営みは互いに相殺しあい、宇宙の歴史にまったく影響を与えないというわけだ。
「宇宙論が扱う様々な現象はアインシュタイン方程式の解として導き出せるわけ。たとえばブラックホールは最初に解のひとつとして導き出されて、そ
のあとで実物が発見された。宇宙が膨張しているというフリードマンモデルも解なのだけど、それにはひとつ問題があって、宇宙が点から始まったとすると、そ
の点では密度が無限大になってしまう。これは明らかな矛盾でしょ。初期特異点問題といって、宇宙論の危機とか言われたりしている」
「ちょっと待ってください。宇宙が始まる前には何も存在しなかったんですよね。それってかなり意味不明なんですけど、それよりむしろ密度無限大の方が問題なんですか」
「密度無限大はあからさまな矛盾でしょ。宇宙が存在しないのは矛盾なのかどうかもよく分からない」
「そんなもんですか」
「うん。それから平坦性問題や地平線問題といった問題もあって、これらを解決するためにインフレーション理論というのが考えられた。佐藤勝彦が最初に考えたモデルでは真空のエネルギーを方程式に入れて、宇宙の指数的膨張の解を得る。それからインフレーション理論の一種であるエターナルインフレーションというモデルでは、宇宙は無限の過去から存在していて、指数関数的に膨張してきたと考える。これだと初期特異点問題も回避できる。ビレンキンって人が提唱したんだけどね。有限の過去に密度無限大の点があるのが問題であって、無限の過去で密度無限大なら問題ない」
「なるほど。それはなんだか納得できます。宇宙が無から生まれたと考えるより、直観に合う気がします」
「そう? ぼくが大学院で研究していたというのはこれが標準モデル、つまりフリードマンの膨張宇宙のモデルと整合するかどうかを調べるという内容でさ」
「矛盾が生じないかどうかを見るわけですね」
「うん。だけどエターナルインフレーションの問題は、量子論を全然考えていないこと。過去に遡っていけば結局プランク定数より小さい宇宙を考えな
くちゃいけないから、その時点で破綻する。つまりブラックボックスに直面する。そう考えると、通常のフリードマンモデルのように『ある大きさより小さく
なったので量子論におまかせ。これは重力の問題ではなく量子論の問題ですよ』と丸投げしてしまう方が潔かったりする」
「そうか。それはかなり重要な問題ですね」
「膨張宇宙のモデルってまだあまり分かっていなくて、ブラックホールだって静的な宇宙の解として導き出されたものだから、膨張宇宙におけるブラックホールの性質というのはよく分かっていない」
「なるほど。方程式はひとつだけど、まだまだ分からないことが多い」
「アインシュタイン方程式の解をひとつ見つけただけでノーベル賞級なんですよ。たとえば富松佐藤解とか」
「それはどんな物理現象をあらわすんですか」
「あまりよく知らない」
「きっとブラックホール並みに面白い現象なんですよね??」
「たぶんそう。でも最近は厳密解やってる人ってそんなにいないんですよ。あんまり面白くないというか」
「じゃぁシミュレーションするわけですか」
「そう。アインシュタイン方程式で扱われているのは四次元マニフォールドなのだけど、それを3+1分解してやると、ぼくらの直観にあう星の現象になる。シミュレーションでそれをばーっと計算しちゃった方が、発見があったりする。それを数値相対論といって、今はこっちの方が主流かな」
基本的な方程式が分かっている以上、力業でどんどん計算できてしまうわけだ。
「宇宙って広いわりに、我々の知性ってすごいですよね。こんなに理解できちゃっていいんですかね。人間ごときが」
「自然は単純なんだよ」
「単純とかいいつつ、わけ分からないじゃないですか。ほとんどの人にとっては」
「単純ですよ。アインシュタイン方程式ひとつ知ってればいいんだから」
「じゃぁ、その解がものすごく複雑になるというのは?」
「それは我々の数学がまだまだ甘いから」
「数学は宇宙の一部じゃないんですか」
「うーん」
Eさんは遠い目をして言う。
「アインシュタイン方程式を知ると、不思議な気分になるよ。ぼくも計算していて変な気分になったもん。普段はゼミ発表の準備に追われていてそんなこと考える余裕は無いけど、たまに、夜中とか。あー、俺宇宙の一部だけど、宇宙を考えてるよ、とか」
「いいですねー。そんな気分、味わってみたいなー」
「でも、やりすぎると人生間違えるよ。宇宙論の元研究者で無職やフリーターの人、高野や北白川のあたりにいっぱいいますよ。彼ら、就職活動とかしないしね」
「そりゃ、宇宙の神秘とか考えていた人が就職活動する気になんてなれないですよねぇ」
「そーかもね」
それはそれとして。
ひとときでも大宇宙の壮大な真理に触れられたのなら、それは幸せな人生であるに違いない。
℃ Taro Tezuka (2005.5.24)
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