科学哲学勉強会・内井忽七「科学哲学入門」
科学哲学勉強会 第一回 報告文
日時:6月23日(日)15:00〜18:00 場所:ボンボンカフェ
梅雨の晴れ間の六月二十三日。出町柳のお洒落な喫茶店BONBON CAFEにて、「科学とは何か」という大問題に関するケンケンガクガクの議論が行われ、幸せ気なカップルが談笑中の卑俗にして大衆的な空間は、一挙に学術的至高性の高みに引き上げられた。
我らが科学哲学勉強会にて使用されているテキストは内井忽七先生著「科学哲学入門」(世界思想社)。今回、内井研究室所属の大学院生にして確率的帰納主義者(内井派)山下氏の参加により、隣席の客を慟哭せしめるほどの熱い論戦が繰り広げられた。扱った範囲は主に自然科学の方法に関する様々なモデルの比較と、反証主義のサワリである。
まず、科学的探求において重要な役割を果たす「因果関係」についての検討を行なう。すなわち「風が吹く」と「桶屋が儲かる」の関係を巡って、精緻な分析が加えられた。
「風が吹いたので、桶屋が儲かる」という因果関係が存在する場合、それをさらに細かい「近因」に分解することが科学的説明であると19世紀の物理学者ハーシェルは主張した。すなわち「風が吹く」と「桶屋が儲かる」の間に「目に埃が入る」「目の不自由な人が増える」「彼らは三味線を弾く」「猫が三味線の皮に使われて減る」「鼠が増える」「鼠が桶をかじる」といった現象を挟むことを意味する。では、なぜ科学は近因への分解を目指すのか。近因まで分けることで必要な関係の種類を減らせるからだとする手塚・関と、分けた方が人間が納得しやすいからだとする山下の間で、議論というほどでもなかったが、それなりに鋭い舌戦が繰り広げられた。
後半の主な論点は、「科学的探究において帰納は不要」とする反証主義の科学哲学者ポパーの主張に関して。テキスト中で内井先生がポパーの考えを代弁する箇所、「この反論に対して、ポパーはおそらく、『論理や数学の基本法則のようにア・プリオリな基礎を持つ原理と帰納の原理とを同列に論じてはならない。前者の原理は、前提から結論への推論において情報をまったく増やさないのに対し、帰納の原理は、情報が増える推論を保証する原理であるからア・プリオリな性格は持ちえないのだ』と答えるであろう」(60ページ)について、
1) ここで使われている「情報」という言葉は、いったいどんな意味で用いられているのか。
2) 論理や数学の基本法則、たとえば排中律などは、ここで言うところの「情報」を本当に増やさないのか。
という点を巡り、延々二時間近く議論が繰り広げられた。おそらくこんな箇所でこれだけ長いこと話し合ったのは我々が初めてではないかと思われ、多大な満足を以って会を終了した。(報告:手塚)
参加者:I村、K藤、K川、Y下、T塚(合計5名)
科学哲学勉強会 第二回 報告文
日時:7月7日(日)15:00〜18:00 場所:ボンボンカフェ
多彩な顔ぶれの出席者によって、科学と非科学と超科学とがゴッタ煮となった第二回・科学哲学勉強会。今回、明らかに我々は科学を超えた!と思った。
二十一世紀最大の難問、「科学とは何か」が気になって夜も眠れず、出町柳のBONBON CAFEに集まった面々。科学哲学は初めてという参加者も多く、どうやって始めたものかと主催者側で悩んでいると、初参加のY岡がいきなり手を上げて、「はいっ、私から質問があります」まだ誰も何も言っていないのに、いきなり質問された。Y岡は一見、優等生風の女子大学生だが、実は少し変な人である。
「私、論文を書いていて、『この書き方は科学的でない』とよく言われます。だがそんな時、私は思う。科学的とは、いったい何なのか」演説のような抑揚をつけて訴える。もしもこの調子で論文を書いているのだとしたら、たしかにそれは科学論文というより政治論文になってしまうだろう。
Y岡の欧米系ビジネスパーソンノリにタジタジとなりながらも、科学の定義について、それぞれが意見を述べた。T塚の「論理+知識」説などが提示される。
「科学的だ」と「科学じゃない」の違いは何なのか。科学哲学への導入としては格好の問いであったようにも思う。今後、どなたか科学哲学の勉強会を開かれる際には是非この方法を参考にしていただきたい。
科学哲学が扱う内容が明確となってきたところで、本日の本題に入る。すなわち、反証主義。反証主義とは何であるか。一般に科学法則は「すべてのムニャムニャはペチャペチャ」といった形で記述される。これらの文は論理学において『全称命題』と呼ばれる。たとえば「すべての物体の間には質量の積に比例し距離の自乗に反比例する引力が働く」「すべての電流は電圧に比例する」など。
一方、実験結果というのは、どれも個別の対象についての言及である。例を挙げるなら、「地球と月の間に引力が働いた」「地球とニュートン家のりんごの間に引力が働いた」「導線に1Vの電圧をかけたところ、0.5Aの電流が流れた」など。これらは『単称命題』と呼ばれる。
あいにく我々が通常用いる古典論理や直観主義論理においては、単称命題をいくら集めても、それが全称化された命題を導くことが出来ない。ところが科学とは実験結果(単称命題)から科学法則(全称命題)を得ようとする営みではないのか。ここに現れた科学と論理の乖離をどう解決するか。その試みのひとつが反証主義である。
反証主義の提唱者ポパーによれば、科学法則とは実験結果によって反証されていない全称命題を意味する。たとえば「すべての電流は電圧に反比例する」という命題は、実験してみればすぐに間違いだと分かる。こうしてこの命題は「反証」される。だが、「すべての電流は電圧に比例する」の方は、まだ実験によって反証されていない。よってこちらは法則として扱われる。単称命題から全称命題を導出することは出来ないが、全称命題の否定は導出できるというのが反証主義の着目点である。
さらに言えば、どんな実験結果によっても反証されないような命題、たとえば、「誰が何と言おうと、神の言葉が間違っているはずがない」「反証主義の正しさは、どんな観察結果よりも優先される」などは、ポパーに言わせると科学的命題ではない。科学的命題とは常に「今のところ反証されていない」という形で主張されるべきものである。科学と非科学を明確に分けられることも、ポパーが反証主義の強みとしたところである。
反証主義と対立する立場として「確率論的帰納主義」がある。こちらも単称命題と全称命題をどう関係させたらよいのかという問題に取り組む。単称命題から全称命題を導出することは当然のことながら出来ないので、代わりに単称命題によって全称命題の「確からしさ」を変化させていく。すなわち「地球と月の間に引力が働いた」「地球とニュートン家のりんごの間に引力が働いた」といった実験結果が得られるたびに、「すべての物体の間には質量の積に比例し距離の自乗に反比例する引力が働く」という全称命題の確からしさが高まっていく。我々のテキストの著者である内井先生は確率論的帰納主義者であり、反証主義を強く批判する。内井先生の徹底的なポパー批判の前に我々は為す術もなく、反証主義を積極的に擁護する参加者は現れなかった。かろうじてY下が「ポパーの理論は未完成であっても、いつか“確率論的反証主義”が完成された形で現れるかも知れない」と主張し、若干の議論となっていた。かくして我々の努力によって、二十一世紀最大の難問に微かながら光が射してきたかのように思われたのであった。(報告:手塚)
参加者:Y下、T塚、K村、I村、M上、Y岡、M上、O谷、O木 (合計9名)
科学哲学勉強会 第三回 報告文
日時:8月4日(日)15:00〜19:00 場所:京都・出町柳のBONBON CAFE
「ミステリーサークルとは、麦畑に忽然と現れる幾何学模様のことである」。これは、ミステリーサークルに対する『説明』のひとつである。ところが科学者は、このような説明に満足しない。彼らは(といってもミステリーサークルを研究している科学者はそれほど多くないと思われるが)、ミステリーサークルに対する『科学的な説明』を求める。では、科学的な説明とはどのような説明か。今回の勉強会では、曖昧な定義で済まされがちな『科学的説明』の謎に迫った。すなわち、『科学的説明』を説明することを試みた。
『科学的説明』に対する一般的なイメージのひとつは、現象を法則に分解していくことであろう。19世紀の物理学者ハーシェルは、現象を因果関係の連鎖に置き換えることこそが科学的説明であるとした。たとえば「風が吹いた」と「桶屋が儲かった」の間に、「風が吹けば塵が舞う」「鼠が桶をかじれば桶屋が儲かる」などの因果関係を差し挟むことが科学的説明とされる。ところがこのモデルでは、「ニュートン力学がケプラーの三法則を説明する」といった意味での説明、すなわち『法則による法則の説明』を扱えない。これに対し、J.S.ミルらは、『個別的な法則を、一般性の高い法則に統合させること』も説明の一種とみなした。だが、二種類の定義を統一させるには至らなかった。
20世紀に入り、科学哲学者ヘンペルは、「法則」や「現象」をいずれも「命題」ととらえ、説明は『命題を導き出す演繹的推論』であると主張した。たとえば「出町柳にミステリーサークルが現れた」という現象(=命題)は、「出町柳にプラズマが生じた」という現象(=命題)と、「プラズマが生じれば、ミステリーサークルが現れる」という法則(=命題)から演繹できる。この演繹そのものが、「出町柳にミステリーサークルが現れた」に対する説明となる。もちろん、演繹で用いられる命題は、科学的な方法で確証されたものでなくてはならない。確証の方法については、反証主義や確率論的帰納法などの間で議論があると前回の勉強会で論じた通りである。説明に対するこの考え方を、D-Nモデル(演繹的-法則的deductive-nomologicalモデルの略)と呼ぶ。
我々はミステリーサークルとD-Nモデルの関係について深く考え、以下の問題点に思い至った。プラズマが、ミステリーサークルを発生させるとしよう。しかし、それは1万年に1回くらいしか起こらないとする。それでもなおプラズマの発生からミステリーサークルの発生を演繹できるのなら、D-Nモデルではプラズマ説が『科学的説明』とみなされる。だが、それよりもむしろ「(プラズマによって生じることもあるかも知れないが)、ほとんどのミステリーサークルは人間が作っている」の方が、良い説明とは言えないだろうか。
「他の理由でその現象が生じたという発想が、D-Nモデルには無い」と川本が指摘する。N町が「確率の概念を取り込むべきであろう」と主張した。事実、ヘンペル自身、確率を取り込んだモデルも考えていて、I-Sモデル(帰納的-統計的inductive-statisticalモデル)と呼ばれている。
D-Nモデルは確率を扱わないため、以下のような限界がある。「出町柳には毎日90%の確率でプラズマが生じる」という法則と、「プラズマが生じれば、ミステリーサークルが現れる」という法則が確証されていたとしよう。ここで、「出町柳にミステリーサークルが現れた」という現象が観察された時、上の二つの法則は『説明』に使えるだろうか?。あいにく、D-Nモデルのもとでは使えない。なぜなら、上の二つから演繹できるのは「出町柳には毎日90%の確率でミステリーサークルが現れる」という確率命題であり、「出町柳にミステリーサークルが現れた」という事実命題とは一致しない。すなわち、現象を演繹できていないために、説明とみなされない。
これらの問題点を乗り越えるため、I-Sモデルでは「現象が高い確率で生じる」という命題を演繹しただけで、それを説明とみなす。すなわち、「出町柳には毎日90%の確率でミステリーサークルが現れる」という命題が導き出されただけで、説明が得られたことになる。
このモデルを使えば、二種類の説明に対し、どちらが現象を高い確率で生じさせるかを計算し、優劣を付けられると我々は考えた。仮に「そのへんのおっさんが毎日95%の確率でミステリーサークルを作っている」という法則が確証されていた場合、そちらを用いた説明の方がプラズマ説よりも適切であると主張できる。
勉強会の後半ではI-Sモデルに対する批判を検討し、I-Sモデルを打倒して我々のオリジナルモデルを作り出そうと試みたが、そこまで至らなかった。
ミステリーサークルについて、かなりくわしくなった。その意味でも有意義な会であった。(報告:手塚)
参加者:N町、K野、T中、S崎、K藤、I村、H田、K本、M上、K村、T塚、T塚 (合計12名)