【報告】
自殺者の脳

マンハッタンの北端、ワシントンハイツにあるニューヨーク州立精神医学研究所を訪問した。

自殺者の脳を解剖し、健常者との違いを調べているという、アンドリュー・J・ドワーク先生の研究室を見学するのが目的である。

日本から来た我々三人−−IT企業経営者であるヤナさん、別の会社の重役のY、そしてぼく−−は、ごつい体格の警備員に身分証をチェックされ、真新しいビルディングの中に通される。

約束していた時間にオフィスに着いたが、ドワーク先生は不在。同僚の人いわく、すぐに戻ってくるとのこと。

いったん廊下に出て、壁に貼られているポスターに目を通しておく。脳の神経細胞の一部を染色した写真。右側の写真に比べて、左側の写真は紫色に染色された部分が少ない。

廊下の向こうから白衣の男性がやってきた。

「待たせてすまなかったね」

もじゃもじゃ髪に白衣。いかにも研究者的な風貌だ。
同行者のヤナさんがあとになって、「漫画に出てきそうな研究者だったな。ネズミとか可愛がってそう」などと描写していたが、まさにそのような雰囲気。

ドワーク先生はさっそくポスターの上に指を置いて、「これは追試験の結果なんだ」と、説明を始める。

「以前我々が行った実験を、別のデータで再確認したという内容だ。最初は、平均年齢の高いグループで実験を行った。今回はもっと若いグループを対象 にしている。我々のグループでは主に海馬のニューロンを調べているわけだが、自殺者の神経細胞では樹状突起棘の密度が著しく低いことをこの写真とグラフは 示している。それが年齢に関係なく見受けられるということが、今回の結果によって分かったわけだ。さらに、患者がどれだけ治療を受けていたかからも影響を 受けていない。つまり、治療はまったく効果が無かったってことさ」

そう言って、首をすくめる。ポスターから指を離し、オフィスと廊下を隔てた反対側の部屋に目を向けた。

「ちょっと、見てみるかい」

ドアを開けると、薄暗い倉庫のような部屋だった。
棚に、瓶が所狭しと並べられている。

そして、瓶の中身はどれも脳だった。

「うわぁ」

突然、脳だらけの部屋に入れられて驚く我々。

ふやけたゴーヤのような脳みそが、スライスになって瓶の中に入れられている。
ホルマリン漬けである。

スライスされているせいか、あるいは長い間漬かっていたせいかも知れないが、大きさは思っていたより小さい。

かつてそれらのひとつひとつに複雑な電気信号が流れ、
豊かな思考を生み出し、
同時に深い悩みも抱かせて、
最後は自らの死を選び、
家族や知人を悲しませたりしたのだろう。

そんな脳たちが今は瓶の中にぷかぷかと浮かんでいる。

「古いのは1950年代のものだよ」

もちろん、肉眼で見ただけで自殺者の脳の特徴が分かるはずもない。

「顕微鏡で見るんだ」

ラボに案内された。顕微鏡を囲み、染色した脳のプレパラートを覗く。
何本もの紫色の繊維が重なり合ってからみあっているのが見える。

「この試薬は全体のニューロンの1%を染色する。今見えているのは、ニューロン全体の百分の一だよ」

ドワーク先生がつまみを回し、焦点をずらした。すると手前のニューロンがぼやけて、深い場所にあるニューロンが浮かび上がってくる。何層にも重なっているようだ。

「ニューロンがどこからどこまで続いていくかを辿っていき、得られた結果を三次元空間データベースに保存していくんだ。これが実に手間のかかる作業でね。一本のニューロンを辿るのに、一時間から二時間かかる」

「それって、自動化できないんですか」

ヤナさんが尋ねた。僕も同感。まさに画像解析の技術を使うべきところではないか。
しかし、ドワーク先生は首を振った。

「それほど簡単じゃない。二つのニューロンが交叉していた時、どちらが上なのか見極めなくてはならないだろ。これの自動化が難しい。今は顕微鏡の焦 点を移動させることで、上下のどちらかをぼやけさせて、判定を下している。それを自動的に行うプログラムもあるけど、精度の問題がある」

そんなわけで、今でも大変な労力をかけてニューロンを辿っているそうだ。
染色の鮮明さも重要である。幸い、ドワーク先生の研究室では従来の手法よりもずっと鮮明なゴルジ染色の方法を編み出したのだが、それは一度ホルマリンに漬 けた脳に対しては使えない。だから研究室のスタッフは自殺者が出たと聞くと、死体安置所まで駆けて行って、脳をもらってくるというあわただしい生活を送っ ているそうだ。

「そうやって構築された三次元のデータはどのように使うのですか」
「たとえばニューロンの一定の長さに対して、どれだけたくさんの同心球と交わっているかによって、複雑さを評価する。統合失調症の患者の脳では、その値が著しく低いといったことが分かった。それがこのグラフだ」

雑誌論文のコピーを見せてもらった。

「実際にコンピュータで見てもらった方が早いかもな」

オフィスの自席に案内された。
若干散らかっている。あちこちに資料や雑誌の山。
その一角に家族の写真が飾られていた。

デルのコンピュータの画面に、アプリケーションが立ち上がった。
無数に枝分かれする赤い線と青い線が、同心円と交わっている形状が表示された。
赤と青が別々のニューロンを表すのだろう。
三次元のデータさえ入れてしまえば、任意の解析が行える。

「こんな感じで解析していくわけだ」
「こういう研究って、結構行われているんですか」
「最近、増えてきているね。昔は『統合失調症は神経病理学の墓場』なんて言った人もいたけど」
「どういう意味ですか」
「今から100年前、神経細胞が顕微鏡で調べられるようになった頃、この方法で統合失調症の原因はすぐに解明されるだろうと思われていた。それで多くの研究者が一生を費やして調べたりしたんだが、結局何も見つからなかった」
「それが最近ふたたび注目されているわけですね」
「自殺の理由の研究は、ニューロンの構造解析、社会的分析、脳の化学的分析、そしてふたたびニューロンの構造解析、という風に変化してきたんだ。この20年くらいで構造解析がまた注目されている背景には、生きた状態での活動を追えるようになったことも大きい」
「MRIとかですか」
「それからCTもね」
「この研究で使われている数値を、生きた人間で計測することはできるんでしょうか。それを使って自殺の危険性を調べるとか」
「いや、この方法は生きた脳には適用できない」

脳をスライスして染色し、顕微鏡で調べるというのが現在の方法だから、生きた脳で行うのは難しい。

「では、臨床的な応用はまだですか」
「今のところ、まだだね」と笑う。「ただ、うちの研究室のあるグループの研究では、グルタミン酸塩の投与によって神経伝達が活性化し、樹状突起棘が増加するという結果が出ている。だけど、そんなものに製薬会社が興味を持つわけないよな。単なるアミノ酸だもの」

味の素なら興味を持つかも知れない。
特許によって費用を回収できない物質の臨床試験に、製薬会社がまじめに取り組むというのは考えにくそうだ。

「別の方法として、樹状突起棘の減少は興奮性神経伝達の低下をもたらし、それがさらなる樹状突起棘の減少を促すことが分かっている。そのサイクルを断ち切ることができれば、樹状突起棘の減少を食い止められるかも知れない」
「正のフィードバックを止めるということですか」
「そういうこと。それから動物の雌では、エストロゲン周期に伴い樹状突起の量が変化することが知られている。だからエストロゲン本来の働きを弱めた薬剤を使って、樹状突起棘を増加させて統合失調症を治療するという方法も考えられるかも知れない」
「先生の研究では、自殺者の脳と健常者の脳を比較しているんですよね。治療が成功して、自殺しなかった人のデータは使われていないのですか」
「そういったデータは手に入りにくいよ。治療が成功した場合は、だいぶ経ってから死ぬからね。追跡しようと思っても難しい。その代わり、患者の親の脳を調 べるということを行っている。基本的に親の方が患者より早く死ぬことが多いので、連絡を受けたらすぐにデータを取りに行く。それに、患者の親も精神病の兆 候を持つことが多いんだ」
データを取るというのはつまり、脳をスライスするということか。
「自殺する人と、単に精神疾患を持つ人の間には、何か神経の構造上の違いはあるんでしょうか」
「あると思う」意外にもはっきりと言った。「ただ、まず言っておかなくてはならないのは、自殺というのは精神疾患においてはけして珍しくないということ だ。かなりの割合の人が、精神病が原因で自殺する。それではなぜ違いがあると思うかというと、家系に強く現れることがあるんだ。単に精神疾患の多い家系 と、自殺者をたくさん出す家系がある」
「それ、本当ですか」ちょっと驚いた。
「ああ」
「その原因となる違いは見つかっているのでしょうか」
「まだ見つかってない。だが、いくつか興味深いデータはある。単なる鬱病の人はセロトニンの低下が脳全体に渡って見られるのだけど、自殺した人は前頭葉の下部で特に著しい低下が見られたという報告はある」
「それはすごいですね」
「うん」ドワーク先生はうなずく。
「我々の最初の実験は、アメリカで平均年齢の比較的高いグループを対象にして行った。最近の実験は、マケドニアのもう少し若い世代を対象にしている。とい うのも、アメリカの精神病院の患者は病院で手厚い治療を受けているから、長く生きてから自殺する人が多い。一方、マケドニアでは入院してすぐに自殺してし まうことが多いんだ」

淡々と語るが、それだけの人が治療を受けつつも自殺しているわけだ。
アメリカの年間自殺者数はおよそ三万人。日本も同じ、年間三万人が自殺している。
しかし、アメリカには日本の二倍以上の人口がいるから、自殺率なら日本の方が二倍である。

「しかも、アルコール依存症の比率は低い。これは不思議なことだ」

一般に、アルコール依存症の多い国は自殺率が高いそうだ。スウェーデンやハンガリーなど。
アメリカの場合、自殺の理由は鬱病が圧倒的に多いとか。
日本では金銭的理由で自殺する人が多いという話に、ドワーク先生は逆に驚いていた。

「僕らの国では簡単にクレジットカードが作れるものなぁ」

冗談めかして言っていたが、アメリカ人がたくましいのか、日本という国が貧乏人に厳しいのか。
ドワーク先生の最近の研究対象となっているマケドニアでも、金銭的理由で死ぬ人が結構多いそうだ。

お礼を言って、研究所を出た。
帰りのバスの中では、乗客の頭の中に入っている脳の形が思い浮かべられてしょうがなかった。

℃ Taro Tezuka (2005.10.7)
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