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マルクス「資本論」雑記
資本論第二巻第二篇前半
資本論と科学 2003年6月10日 マルクスは交換価値が労働時間の長さを表していると考え、それを経済学の基礎に置いた。いわば生産者から見た経済学である。一方、新古典派は需要の分析を重視する。交換の基準となるのは労働時間ではなく需要である。こちらは消費者からの経済学と言えよう。 唯物論者のマルクスにとって、経済の基礎に「時間」という物理的な次元が用いられていることは好ましかったのかも知れない。実際、時間は客観的に計測できる。そして需要の計測よりも遙かに容易だ。 だがマルクスにとって残念なことに、物理の次元を用いたからといって科学的になるわけではない。大切なのは科学の方法論が正しく用いられているかどうかだ。 資本論は極めて演繹的な体系だ。「交換価値=労働時間」という公理から出発し、様々な経済現象をモデル化していく。マルクスはアダム・スミスの方法を「粗雑で経験的」と批判している。おそらくマルクスは帰納的ではなく演繹的な経済学を作ることを目指していたのではないか。 しかし、演繹的な体系だけでは科学にならない。体系から導き出される命題が観測結果と一致していることが必要である。資本論はその点が不足している。実データとの照らし合わせに乏しい。ジャーナリスティックな記述も見受けられるが、理論の裏付けとなるようには使われていない。マルクス経済学が科学的になるためには、資本論で展開された理論を実データによって検証する必要がある。
生産財の蓄積の重要性と困難性について 2003年6月12日 資本主義でなければ、これほどたくさんの生産財は蓄積されなかったことだろう。王侯貴族も搾取はするが、すぐに消費してしまう。生産財を蓄積させなければ、生産量は伸びない。資本論第二巻第十七章で紹介されているウィリアム・トムソンの主張は、生産財の重要性と、それを(人間の消費欲求に抗して)蓄積していくことの困難を軽視しすぎだと思う。実際、財を蓄積するだけでは駄目なのだ。生産につながる財を蓄積しなくてはならない。トムソンは「協同組合的労働co-operative labour」の方が生産量が大きいと主張するが、それは怪しい。役人が作る「生産財」は役に立つものばかりとは限らない。 → 世界的な計画経済を目指したマルクスと違い、トムソンは小規模な生産組合が競争しあう社会を考えていたのかも知れない。そのような社会システムは資本主義的生産様式に比べてどれだけ非効率なのだろうか。日本の生協はうまくいっているようにも見える。「それは税制上優遇されているからだ」と僕の父は一蹴していたが、仮にそのような優遇が無かったとしたら、どれだけ私企業に劣るのだろう?
剰余生産に着目した資本論簡約 2003年6月12日 人間は剰余生産を交換しあって豊かな生活を営む生き物である。自己を維持させるのに必要な長さ以上の労働は、すべて剰余生産である。最低限の衣食住を満たすのに必要な時間よりも長く働いた時、剰余生産が行われている。たくさん働いた人はたくさん剰余生産しており、その分豊かな生活を営めるはずであった。だがマルクスの時代、剰余生産のほとんどが資本家の懐に入り、労働者は最低の生活をしていた。 (現代の労働者は最低以上の生活を営んでいるように見える。だとしたら労働者は剰余生産のそれなりの割合を手にしていると言える。)
貪欲な経営者の立場から資本論を読む 2003年7月20日 企業の経営者が資本論を読んだら、物足りなく感じると思う。労働者を長時間働かせた方がよいとは教えてくれるが、労働の中身を改善させることについては何も教えてくれない。そして労働時間を延長し、給料を下げるだけでは現代の企業として勝ち残れない。 それはまさに資本論の経済理論としての不十分さをあらわしている。労働の質を捨象し、長さという量に焦点を当てて定量的モデルを作ったのが資本論であるが、捨てた部分が大きすぎたようだ。
資本論第二巻、雑記 2003年8月10日 【無尽蔵の資本を仮定していないか】 商品の価格が労働時間だけで決まるというマルクスの主張は、資源の量が無尽蔵であることを仮定している。 たとえば金。剰余生産によって社会全体で流通する商品の絶対量が増えると(=社会全体が物質的に豊かになると)、流通手段として必要とされる金の量も増加する。(これは生産様式とは関係なく、商品の流通量で決まる、と第17章の第2節に書かれている)。 この場合、需要の増加によって金のレートは上がる。すなわち、金の製造に必要とされた労働時間よりも長い労働時間で作られた商品と交換されるようになる。しかしそれを観察した事業主の多くが「金製造は儲かる!」と思い、金製造に参入/規模拡大する。供給の増加によって金のレートは下がる。そして労働時間の長さが等しい商品と交換されるレベルまで落ちていく。 だがこれは、金が無尽蔵に採掘できることを前提にしている。もし金の産出高に自然的な制限があるとしたら、金のレートは上がったままだ。すなわち等しい労働時間の間での交換は成り立たない。労働者からの搾取ではなく、資源の確保が財を生むという資本主義以前のモデルが成り立つ。 【資本論が扱う交換⊂契約としての交換】 法という観点から言えば、交換は契約であり任意なのだ。交換のうち、「労働時間が等しい商品の間で行われる交換」というサブセットに関して議論するのが資本論である。
資本論第二巻、雑記 2003年10月1日 資本論第二巻十九章に、スミスの「諸国民の富」第二巻五章からの引用がある。 「自然も労働する。その労働は無償であるにも関わらず、もっとも高賃金の職人と同じように、価値を作り出している」 明らかに「価値」や「労働」の定義がマルクスとは異なっている。マルクスはあくまで生産過程の中心を人間に置くから、スミスの主張がナンセンスにしか見えない。 しかし、たとえば報酬によってモチベーションの高まる家畜、あるいは若干の権利主張を持ったロボットなどを考えた場合、人間を特別視しないスミスの主張にも一理あると思えてきてしまう。もちろん、スミスのモデル自体は使い物にならないかも知れないけれど。 ---------------------------------- 人道主義者のマルクス経済学: 人間は特別だ。人間は大切にしなくてはならない。動物とは違う。だから、人間が自分が生産したのと同価値(=労働時間が等しい)の商品を得られるようにしなくてはならない。一方、家畜は機械と同じであり、維持に必要な最低限の商品(食料等)だけを与え、最大限酷使してやればよい。 功利主義者のマルクス経済学: 人間は自分の労働と同価値の商品が得られることによってモチベーションが高まる。だから、人間の労働を特別視しよう。家畜は生産量が下がらない程度に酷使しよう。そしたら社会全体の生産量が高まるはずだ。すると、私は豊かになれる。
資本論第三巻、ベンチャー企業とマルクス 2004年1月27日 利潤率低下の法則が、資本論第三巻の重要なテーマのひとつ。これに対して、思うこと。 利潤率が低下しようが何だろうが、資本家の手元にある不変資本の量は年々増加していくのだから、同じ数の労働者を同じ時間だけ働かせていれば、利潤の絶対量は変わらない。結果として、労働者に対する資本家の相対的な豊かさは変わらない。(相対的な豊かさの尺度となるが価値)。それどころか、労働者数や労働時間や剰余価値率が増えていくとしたら、資本家の相対的な豊かさはさらに高まる。それで満足じゃないか。利潤“率”が減ったところで、資本家にとって何の問題があろうか。 しかし、利潤率の低下は、これから新しく参入しようとする起業家たちにとっては大きな問題である。 大企業の工場群と勝負するためには、自分も多大な不変資本を用意しなくてはならない。新製品を発売するにしても、工場で効率的に作らなければ、売れる値段まで下げられない。銀行から資金を借りたとしたら、利子を取られて手元に残る利潤は減ってしまう。利潤が少なければ、事業が拡大していかない。すなわち、いつまでたっても大資本に追いつけない。その一方で、リスクは増える。事業に失敗したら、借金の山だ。高いリスクを背負いながら挑戦する起業家が、どれだけ残るだろうか。 こうなると、起業家が参入できるのは、労働集約的な産業だけだ。ソフトウェア産業が起業家にとって魅力的であるとしたら、それはソフトウェア開発が労働集約的であり、多くの不変資本を必要としないからであろう。剰余価値率が他の産業と同じなら、利潤率は高い。 しかし、ソフトウェア産業が高い利潤率を上げ続けていると、やがてそこに投資が集まり、生産過剰になる。商品が価値通りに売れなくなり、価格が暴落。利潤率が他の産業と同じ所まで下がってしまう、というのが資本論三巻の主張。ITバブルの崩壊を見て、マルクスは「ほら見ろ」と、したり顔をするだろうか。 資本主義を否定したマルクスだが、起業家に対しては一目置いていたのではないかと思わせる節がある。その衰退によって資本主義が没落していくという予言は、興味深い。(第三巻第十五章第三節の最後の段落「資本形成がもっぱら、利潤量によって利潤率を償いうる僅かばかりの既成大資本の手に落ちるに至れば、一般に生産の活気は消え失せるであろう。生産はまどろむであろう。利潤率は、資本主義的生産における推進力である。」) 社会に新しい息吹を吹き込み、システムの硬直化を防ぐ起業家たちが資本主義を「健全」に保つのだとしたら、彼らの意欲が削がれることこそが、「資本主義の崩壊」の遠因になるのかも知れない。
資本主義と共産主義 2005年5月24日 資本主義と共産主義の違いを少しオーバーに言ってみると。 客の態度がどんなに悪くても「お客様は神様です!」とぺこぺこするのが資本主義。 店員の態度がどんなに悪くても「労働者様は神様です!」とぺこぺこするのが共産主義。
貨幣資本家VS産業資本家、土地所有者VS借地農業者 2005年5月24日 資本論第三巻は結構面白い。 第一巻はひとつの事業体における労働者と資本の対立、 第二巻は社会全体における資本の循環を扱ったが、 第三巻では金融資本と産業資本の対立などが論じられている。 いずれも労働者からの搾取によって成り立っているのだが、両者の利益は対立し合う。 貨幣資本家は産業資本家に貨幣を貸し、利子を受け取る。 利子率が高ければ貨幣資本家は儲かるが、低ければ産業資本家が儲かる。 金融資本と産業資本の取り分の比を決めるのは利子率である。 利子率は労働者からの搾取の度合い(剰余価値率)とはまったく独立に運動する。 すなわち利子率は生産者同士の信用の度合いによって影響される。 好況期には手形で商業活動を行えるので、貨幣(=金など)はそれほど必要ない。 ゆえに利子率は低く、貨幣資本家は儲からない。 恐慌期には誰も手形を信用しないので、貨幣で商売しなくてはならなくなる。 貨幣に対する需要が高まり、利子率が上がり、貨幣資本家はぼろ儲けする。 恐慌が訪れるたびに大量の貨幣が貨幣資本家のもとに蓄積し、富の集中が強まる。 この三層構造は農業においても存在する。 土地所有者・借地農業者(farmer)・直接労働者、の三者である。 土地の場合、その広さが限られているために土地所有者は借地農業者に対してかなり強い立場に立てる。 ちょうど恐慌期の貨幣資本家のように。 土地の特殊性は、それが他の資本のように再生産しないことである。 土地は増えていかない。 土地の価格は商品の価格と違って、それを作り出すのに必要な労働時間によって規定されず、 地代を利子のようにみなすことで、「資本の価格」を計算したのと同じ方法で計算される。 すなわち、 土地の価格=地代÷平均利子率 である。 これは株価(=企業の価格)や国債などの空資本と同じ計算方法である。 地主と農協 2005年5月24日 資本論の最後の部分は地代の話であり、大土地所有者がいかに利益を貪っているかが述べられている。 だが、日本に住んでいると大土地所有者の利益というものがいまいちピンと来ない。マルクスが描くような一大利益集団という印象は受けない。 昔、フィリピンに行った時、村役場で農林課の職員と話をする機会があった。日本から来たというと、感慨深げにこう言った。 「日本の農協はすばらしい。生産者の団体によって農産物が流通されるというのはすばらしいです。フィリピンにもそんな制度を作らなくてはなりません」 日本のアニメがすごいとか新幹線がすごいとかいうのはよく聞くのだが、農協がすごいと言われたのはその時が初めてだった。 ただ、農協というより、農地が実際に農業従事者によって所有されているという土地制度が優れているのではないか。フィリピンの農地のほとんどは大土地所有者の手に握られていて、そもそも農協が成立する地盤がないと思う。 戦後の日本の農地改革は驚くべき制度改革である。日本において貧富の差が小さいことの一因にもなっているのだろう。 | ||
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