マルクス「資本論」雑記

資本論第二巻第二篇前半
2003年5月24日(土)

資本論を貫いているのは以下の法則である。

「等しい長さの労働時間で作られた商品同士が交換される」

商品の生産に必要とされた総労働時間量を、「価値」と名付ける。ひとつひとつの商品は「価値」という値を持つ。マルクス流の言い方をするのなら、「価値とは対象化された労働に他ならない」。定義より、価値は労働によって作られる。価値それがどの程度人の役に立つかとは関係ない。生産にどれだけの時間がかかったかのみが価値の大きさを決める。

さて、人間は自分が生きていくのに必要である以上に働ける。たとえばある狩猟採集民は一日に必要な食料を六時間で手に入れられるとしよう。それ以上働いた場合、余分な食料が手に入る。それは長期休暇をとるための蓄えかも知れないし、他の人より贅沢することにも使える。

ところが資本主義社会においてはそのような剰余生産が横取りされてしまう。19世紀の労働者の多くは、いくら働いても最低限の食料しか手に入らなかった。資本家は労働者がギリギリ生きていける量しか払わない。

労働者の最低賃金は、生き続けるために必要な最低の金額である。すなわち、彼が買う食料や衣服や光熱の総和によって決まる。これはすなわち「労働を生産するために必要だった労働の金額」である。ひとりの労働者(Aさん)を一日生き永らえさせるために、別の労働者(狩猟採集民のBさん)が六時間働く。Bさんは自分を生き永らえさせるためにも六時間働く必要があるから、あわせて十二時間働く。この場合、Aさんの一日の労働の中にはBさんの六時間労働によって作られた価値が保存されている。最低賃金はそれ(=Bさんの労働時間)を下回ることができない。でないとAさんは食料を買えなくて死ぬ。

搾取がない場合、Aさんは六時間働いて六時間分の土器(あるいは給料)を会社(あるいは事業組合)からもらう。それをBさんに渡す。Aさんの土器とBさんの食料、それぞれに使われた労働時間の長さは等しい。十二時間働いたBさんは土器と食料の両方を手にしてリッチマンである。六時間しか働いていないAさんは食料が手に入るだけである。労働時間に応じて資源の分配がなされている。

ところが資本主義社会では、労働者は十時間働いて六時間分の土器しかもらえない。いつもカツカツである。余分に働いた四時間で作られた土器は、資本家の懐に入る。彼はそれをCさんが四時間かけて作った食料と交換したりするのだ。

このような状況においても、「労働時間で交換」の法則は成立している。そこに「搾取」という仕組みが付け加わっているだけである。

「価値」は経済活動における保存量である。商品の材料となる物質(原子や分子)ももちろん保存されるが、マルクスが着目するのは「価値」の運動である。それは物理学におけるエネルギーや運動量と似ている。物理学では運動量やエネルギーを追うように。資本論では価値を追うことが主題である。視点を物質ではなく、価値に移したところが重要だと思う。

おそらくこの法則には以下のような順序で思い至ったのではないだろうか。

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「働いた人間は、役に立つものを手に入れられる」
(役に立つ=使用価値を持つ)
 +
「役に立つものは、交換できる」
(使用価値を持つものは、交換価値を持つ)
 ↓
「働いた人間は、交換できるものを手に入れられる」
 ↓
「交換価値は、労働から生まれる」
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これだけ見ればずいぶん当たり前の推論だが、複雑な経済システムにそのシンプルな法則を適用して説明した努力は評価されるべきであろう。

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ところが「労働時間で交換」の法則はかなり怪しいと思われる点がいくつかある。
たとえば、以下の二つの商品は等しい交換価値を持つといえるのか。

1.ひとりの労働者が3日かけて粘土から道具を作り、それを使って1日で集められた20キロの山芋

2.ひとりの労働者が道具を使わず4日で集めた1キロの山芋

(粘土と山芋は天然に産出するものであり、他の人間の労働は加えられていないとする)。

さて、この二つを交換する人がいるだろうか?  

このような指摘に対しては、「労働者はその時代の技術レベルが許す範囲で、生産量が最大になる方法を常に選ぶ。それが成り立たないのは技術が移行中の場合のみであり、全体として見れば無視できる」という反論が来るかも知れない。つまり、「2」の方法で生産する人間は長期的には存在しなくなる。ミクロレベルでは労働時間と生産量の比が前後するが、マクロ的なモデルはこれでよい、とする反論である。

だがしかし、技術レベルは常に進歩していくものだから、差があることの方が一般的ではないのか? また、技術レベルだけが生産量に差を作るのではない。以下の商品はどうか。

3.ひとりの怠け者の労働者が3日かけて土から道具を作り、それを使って1日で集められた5キロの山芋

これは「1」と等しく交換されるべきなのか? 人間は常に最大限の力を出し切るわけではない。

また、生産量が労働時間と技術レベルのみの関数であれば、生産物が労働時間に応じて分配される社会システムに人々は納得することだろう。だが、生産量が労働時間と技術レベルと社会システムの関数であるとしたら? そして、資本主義が他の社会システムに比べて、一定の労働時間に対する生産量の大きさを劇的に拡大するシステムだとしたら? その場合、人間は労働時間の公平な交換よりも、生産量の増加を求めるかも知れない。労働時間の公平な交換よりも、生産量の増加に幸せを感じるかも知れない。

結局、二十世紀における社会主義の敗北はまさにこの点にあるような気がする。

人間がもっと働き者だったら共産主義でうまくいったのかも知れないが、怠け者の我々は資本主義で我慢するしかないのだ。

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「労働時間で交換」法則に対するもうひとつの疑問。
二巻二篇十章の注釈2において、アダム・スミスの文章が批判的に引用されている。
「(借地農業者に雇われた)人夫だけでなく、家畜もまた生産的労働者なのだ」。

マルクスにおいては、人間による労働と家畜の使用は決定的に異なる。どのような思想的背景があるのかは知らないが、そもそも最初から人間の労働時間の交換のみに注目すると決めているのだ。つまり、「労働時間で交換」は資本論の体系の公理であり、資本論内では議論されていない。結果として、人間と家畜は労働を交換しない。
「ハナコ(牛)、あと二時間働いてくれんかの。そしたら今夜の餌を1.2倍にしてやるけぇの、どうじゃ」というような交換の契約は成立しないとされている。

牛さんが頑張ってたくさん働いたとしよう。だが、牛さんはそれによってたくさんの餌を与えられるわけではない。牛には常に最低限の(=生存を維持させるだけの)食料を与えておけばよい。そして、常に最大限(=生存が損なわれない程度に)働かせるべきである。それ以外の使い方は、人間の労働を無駄にするだけである。と、マルクスは考える。

すなわちここには動物の権利という発想は無い。これは多くの現代人の考え方と一致するのだろうが、今後もそのような考え方を維持できるのだろうか。牛と人間はそんなに違うのか。たとえば奴隷制においては奴隷と労働時間を交換するという発想は存在しなかった。してみると、人間の労働を特殊とみなす思想がどれだけ普遍的なものなのか、怪しい。

だがその一方で、「労働時間で交換」法則は人間同士の美しい尊重関係ではなく、単なる力関係から来ているとも考えられる。マルクス自身もそのようなシニカルな考え方をしていたかも知れない。人間同士は同じ程度の力を持つ。ゆえに、等しい労働時間で交換することに納得する。それが争いごとを避ける最善の方法である。つまり、お互いの権利の尊重がなくとも、プラグマティックに安定的な関係を追求した結果、「労働時間で交換」というルールが形成されたとも考えられる。その場合、動物の労働が認められないのは、人間と動物が同程度の力を持たないのが原因である。動物は弱いので、交換するよりも奪う方が安定するのだ。動物が人間と同程度の力を持つようになったとしたら、仮に動物の権利が認められないままであっても、交換は労働時間に応じてなされるだろう。極端な例としては、宇宙人との交易はそのような形で行われるかも知れない。互いを尊重しあうことがなくても、自然な流れで「労働時間で交換」法則が成立する。(それも「尊重」の一種なのだ、という主張も可能だろう。いわば商行為に限った尊重である)。

同様にして、機械と人間の間でも交換は成立しない。だが将来、人間と同じような欲求で行動する機械が現れたとしたら、あるいは機械が人間と同程度の力を持つようになったとしたら。「労働時間で交換」法則が機械にも拡張される可能性があると僕は思う。

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最後に、読んだ部分を簡単にまとめてみる。
資本論の第二巻二篇では主に、資本の二種類の区分法である Fixed VS Circulatory および Productive VS Circulation における定義の混乱が、Constant VS Variable という重要な区分を見えにくくしているため、概念が整理されている。それほど血湧き胸躍る部分ではないが、概念が明確化されるのは良いことだ。

1.Fixed VS Circulatory は生産資本 (Productive Capital) 内における区分であり、資本が一回転(生産→商品→貨幣、という回転)する間に使い切られるのが流動資本 (Circulatory Capital)、何回転にも渡って使われるのが固定資本 (Fixed Capital) である。工場や機械や道具や土壌は Fixed、原料や動力源(石炭)や労働力は Circulatory である。

2.Productive VS Circulation は資本の回転(生産→商品→貨幣)における商品資本 (Commodity Capital) と貨幣資本 (Money Capital) をまとめて流通資本 (Capital of Circulation) と呼び、生産資本 (Productive Capital) に対置させたものである。

3.Constant VS Variable は生産過程において価値を増やすかどうかの判別であり、生産資本に対する区分である。労働力が可変資本 (Variable Capital) 、それ以外はすべて不変資本 (Constant Capital) である。

概念整理の目的は、労働という商品の特殊性を明らかにするためである。労働のみが価値(=交換価値)を増やす。というより、価値とは労働によって作られるものなのだ。これは前述の通り、定義である。


資本論と科学
2003年6月10日

マルクスは交換価値が労働時間の長さを表していると考え、それを経済学の基礎に置いた。いわば生産者から見た経済学である。一方、新古典派は需要の分析を重視する。交換の基準となるのは労働時間ではなく需要である。こちらは消費者からの経済学と言えよう。

唯物論者のマルクスにとって、経済の基礎に「時間」という物理的な次元が用いられていることは好ましかったのかも知れない。実際、時間は客観的に計測できる。そして需要の計測よりも遙かに容易だ。

だがマルクスにとって残念なことに、物理の次元を用いたからといって科学的になるわけではない。大切なのは科学の方法論が正しく用いられているかどうかだ。

資本論は極めて演繹的な体系だ。「交換価値=労働時間」という公理から出発し、様々な経済現象をモデル化していく。マルクスはアダム・スミスの方法を「粗雑で経験的」と批判している。おそらくマルクスは帰納的ではなく演繹的な経済学を作ることを目指していたのではないか。

しかし、演繹的な体系だけでは科学にならない。体系から導き出される命題が観測結果と一致していることが必要である。資本論はその点が不足している。実データとの照らし合わせに乏しい。ジャーナリスティックな記述も見受けられるが、理論の裏付けとなるようには使われていない。マルクス経済学が科学的になるためには、資本論で展開された理論を実データによって検証する必要がある。


生産財の蓄積の重要性と困難性について
2003年6月12日

資本主義でなければ、これほどたくさんの生産財は蓄積されなかったことだろう。王侯貴族も搾取はするが、すぐに消費してしまう。生産財を蓄積させなければ、生産量は伸びない。資本論第二巻第十七章で紹介されているウィリアム・トムソンの主張は、生産財の重要性と、それを(人間の消費欲求に抗して)蓄積していくことの困難を軽視しすぎだと思う。実際、財を蓄積するだけでは駄目なのだ。生産につながる財を蓄積しなくてはならない。トムソンは「協同組合的労働co-operative labour」の方が生産量が大きいと主張するが、それは怪しい。役人が作る「生産財」は役に立つものばかりとは限らない。

→ 世界的な計画経済を目指したマルクスと違い、トムソンは小規模な生産組合が競争しあう社会を考えていたのかも知れない。そのような社会システムは資本主義的生産様式に比べてどれだけ非効率なのだろうか。日本の生協はうまくいっているようにも見える。「それは税制上優遇されているからだ」と僕の父は一蹴していたが、仮にそのような優遇が無かったとしたら、どれだけ私企業に劣るのだろう?


剰余生産に着目した資本論簡約
2003年6月12日

人間は剰余生産を交換しあって豊かな生活を営む生き物である。自己を維持させるのに必要な長さ以上の労働は、すべて剰余生産である。最低限の衣食住を満たすのに必要な時間よりも長く働いた時、剰余生産が行われている。たくさん働いた人はたくさん剰余生産しており、その分豊かな生活を営めるはずであった。だがマルクスの時代、剰余生産のほとんどが資本家の懐に入り、労働者は最低の生活をしていた。

(現代の労働者は最低以上の生活を営んでいるように見える。だとしたら労働者は剰余生産のそれなりの割合を手にしていると言える。)


貪欲な経営者の立場から資本論を読む
2003年7月20日

企業の経営者が資本論を読んだら、物足りなく感じると思う。労働者を長時間働かせた方がよいとは教えてくれるが、労働の中身を改善させることについては何も教えてくれない。そして労働時間を延長し、給料を下げるだけでは現代の企業として勝ち残れない。

それはまさに資本論の経済理論としての不十分さをあらわしている。労働の質を捨象し、長さという量に焦点を当てて定量的モデルを作ったのが資本論であるが、捨てた部分が大きすぎたようだ。


資本論第二巻、雑記
2003年8月10日

【無尽蔵の資本を仮定していないか】

商品の価格が労働時間だけで決まるというマルクスの主張は、資源の量が無尽蔵であることを仮定している。

たとえば金。剰余生産によって社会全体で流通する商品の絶対量が増えると(=社会全体が物質的に豊かになると)、流通手段として必要とされる金の量も増加する。(これは生産様式とは関係なく、商品の流通量で決まる、と第17章の第2節に書かれている)。

この場合、需要の増加によって金のレートは上がる。すなわち、金の製造に必要とされた労働時間よりも長い労働時間で作られた商品と交換されるようになる。しかしそれを観察した事業主の多くが「金製造は儲かる!」と思い、金製造に参入/規模拡大する。供給の増加によって金のレートは下がる。そして労働時間の長さが等しい商品と交換されるレベルまで落ちていく。

だがこれは、金が無尽蔵に採掘できることを前提にしている。もし金の産出高に自然的な制限があるとしたら、金のレートは上がったままだ。すなわち等しい労働時間の間での交換は成り立たない。労働者からの搾取ではなく、資源の確保が財を生むという資本主義以前のモデルが成り立つ。

【資本論が扱う交換⊂契約としての交換】

法という観点から言えば、交換は契約であり任意なのだ。交換のうち、「労働時間が等しい商品の間で行われる交換」というサブセットに関して議論するのが資本論である。


資本論第二巻、雑記
2003年10月1日

資本論第二巻十九章に、スミスの「諸国民の富」第二巻五章からの引用がある。

「自然も労働する。その労働は無償であるにも関わらず、もっとも高賃金の職人と同じように、価値を作り出している」

明らかに「価値」や「労働」の定義がマルクスとは異なっている。マルクスはあくまで生産過程の中心を人間に置くから、スミスの主張がナンセンスにしか見えない。

しかし、たとえば報酬によってモチベーションの高まる家畜、あるいは若干の権利主張を持ったロボットなどを考えた場合、人間を特別視しないスミスの主張にも一理あると思えてきてしまう。もちろん、スミスのモデル自体は使い物にならないかも知れないけれど。

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人道主義者のマルクス経済学: 人間は特別だ。人間は大切にしなくてはならない。動物とは違う。だから、人間が自分が生産したのと同価値(=労働時間が等しい)の商品を得られるようにしなくてはならない。一方、家畜は機械と同じであり、維持に必要な最低限の商品(食料等)だけを与え、最大限酷使してやればよい。

功利主義者のマルクス経済学: 人間は自分の労働と同価値の商品が得られることによってモチベーションが高まる。だから、人間の労働を特別視しよう。家畜は生産量が下がらない程度に酷使しよう。そしたら社会全体の生産量が高まるはずだ。すると、私は豊かになれる。


資本論第三巻、ベンチャー企業とマルクス
2004年1月27日

利潤率低下の法則が、資本論第三巻の重要なテーマのひとつ。これに対して、思うこと。

利潤率が低下しようが何だろうが、資本家の手元にある不変資本の量は年々増加していくのだから、同じ数の労働者を同じ時間だけ働かせていれば、利潤の絶対量は変わらない。結果として、労働者に対する資本家の相対的な豊かさは変わらない。(相対的な豊かさの尺度となるが価値)。それどころか、労働者数や労働時間や剰余価値率が増えていくとしたら、資本家の相対的な豊かさはさらに高まる。それで満足じゃないか。利潤“率”が減ったところで、資本家にとって何の問題があろうか。

しかし、利潤率の低下は、これから新しく参入しようとする起業家たちにとっては大きな問題である。

大企業の工場群と勝負するためには、自分も多大な不変資本を用意しなくてはならない。新製品を発売するにしても、工場で効率的に作らなければ、売れる値段まで下げられない。銀行から資金を借りたとしたら、利子を取られて手元に残る利潤は減ってしまう。利潤が少なければ、事業が拡大していかない。すなわち、いつまでたっても大資本に追いつけない。その一方で、リスクは増える。事業に失敗したら、借金の山だ。高いリスクを背負いながら挑戦する起業家が、どれだけ残るだろうか。

こうなると、起業家が参入できるのは、労働集約的な産業だけだ。ソフトウェア産業が起業家にとって魅力的であるとしたら、それはソフトウェア開発が労働集約的であり、多くの不変資本を必要としないからであろう。剰余価値率が他の産業と同じなら、利潤率は高い。

しかし、ソフトウェア産業が高い利潤率を上げ続けていると、やがてそこに投資が集まり、生産過剰になる。商品が価値通りに売れなくなり、価格が暴落。利潤率が他の産業と同じ所まで下がってしまう、というのが資本論三巻の主張。ITバブルの崩壊を見て、マルクスは「ほら見ろ」と、したり顔をするだろうか。

資本主義を否定したマルクスだが、起業家に対しては一目置いていたのではないかと思わせる節がある。その衰退によって資本主義が没落していくという予言は、興味深い。(第三巻第十五章第三節の最後の段落「資本形成がもっぱら、利潤量によって利潤率を償いうる僅かばかりの既成大資本の手に落ちるに至れば、一般に生産の活気は消え失せるであろう。生産はまどろむであろう。利潤率は、資本主義的生産における推進力である。」)

社会に新しい息吹を吹き込み、システムの硬直化を防ぐ起業家たちが資本主義を「健全」に保つのだとしたら、彼らの意欲が削がれることこそが、「資本主義の崩壊」の遠因になるのかも知れない。


資本主義と共産主義
2005年5月24日

資本主義と共産主義の違いを少しオーバーに言ってみると。

客の態度がどんなに悪くても「お客様は神様です!」とぺこぺこするのが資本主義。
店員の態度がどんなに悪くても「労働者様は神様です!」とぺこぺこするのが共産主義。


貨幣資本家VS産業資本家、土地所有者VS借地農業者
2005年5月24日

資本論第三巻は結構面白い。

第一巻はひとつの事業体における労働者と資本の対立、
第二巻は社会全体における資本の循環を扱ったが、
第三巻では金融資本と産業資本の対立などが論じられている。

いずれも労働者からの搾取によって成り立っているのだが、両者の利益は対立し合う。
貨幣資本家は産業資本家に貨幣を貸し、利子を受け取る。
利子率が高ければ貨幣資本家は儲かるが、低ければ産業資本家が儲かる。
金融資本と産業資本の取り分の比を決めるのは利子率である。
利子率は労働者からの搾取の度合い(剰余価値率)とはまったく独立に運動する。
すなわち利子率は生産者同士の信用の度合いによって影響される。

好況期には手形で商業活動を行えるので、貨幣(=金など)はそれほど必要ない。
ゆえに利子率は低く、貨幣資本家は儲からない。
恐慌期には誰も手形を信用しないので、貨幣で商売しなくてはならなくなる。
貨幣に対する需要が高まり、利子率が上がり、貨幣資本家はぼろ儲けする。

恐慌が訪れるたびに大量の貨幣が貨幣資本家のもとに蓄積し、富の集中が強まる。

この三層構造は農業においても存在する。
土地所有者・借地農業者(farmer)・直接労働者、の三者である。
土地の場合、その広さが限られているために土地所有者は借地農業者に対してかなり強い立場に立てる。
ちょうど恐慌期の貨幣資本家のように。

土地の特殊性は、それが他の資本のように再生産しないことである。
土地は増えていかない。
土地の価格は商品の価格と違って、それを作り出すのに必要な労働時間によって規定されず、
地代を利子のようにみなすことで、「資本の価格」を計算したのと同じ方法で計算される。
すなわち、
土地の価格=地代÷平均利子率
である。
これは株価(=企業の価格)や国債などの空資本と同じ計算方法である。


地主と農協
2005年5月24日

資本論の最後の部分は地代の話であり、大土地所有者がいかに利益を貪っているかが述べられている。

だが、日本に住んでいると大土地所有者の利益というものがいまいちピンと来ない。マルクスが描くような一大利益集団という印象は受けない。

昔、フィリピンに行った時、村役場で農林課の職員と話をする機会があった。日本から来たというと、感慨深げにこう言った。

「日本の農協はすばらしい。生産者の団体によって農産物が流通されるというのはすばらしいです。フィリピンにもそんな制度を作らなくてはなりません」

日本のアニメがすごいとか新幹線がすごいとかいうのはよく聞くのだが、農協がすごいと言われたのはその時が初めてだった。

ただ、農協というより、農地が実際に農業従事者によって所有されているという土地制度が優れているのではないか。フィリピンの農地のほとんどは大土地所有者の手に握られていて、そもそも農協が成立する地盤がないと思う。

戦後の日本の農地改革は驚くべき制度改革である。日本において貧富の差が小さいことの一因にもなっているのだろう。


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