ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」随想
かっこいい文章
ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は、かっこいい文章に満ちみちている。僕が感じた文章をいくつか。
4.1212 What can be shown cannot be said.
って表現が、たまらなくかっこいいと思った。「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」という言葉ばかりが有名なようだけど、これだってもっと有名になっていいのじゃないかな。実際、「語りえぬもの」が何かというと、言語自体に関する内容、あるいは論理自体に関する内容のこと。それらについては言語によって語られるのではなく、言語を使用する中で自ずから現れてくる。すなわち使用によって「示される」。坂井先生訳では、まさに「悟る」べきものなのだ。その意味で、この文は理論全体の中核に位置するように思える。
それから、
4.064 Every proposition must already have a sense;(後略)
5.133 All inference takes place a priori.
なども、かっこいい。青色本と茶色本を思い出す。対象と行為との結合には対応表など必要ないのだという議論が延々と行なわれていた。LWにとって、事実から命題が生まれるのか、あるいは命題から事実を想定するのか、といった区別はナンセンスだったのだと思う。事実と命題の間には時間関係など存在しないのだから。彼はただ、事実と命題が合わさって世界と思考を形作っているということを主張したかったのみだと思う。
5.633 (前略)And from nothing in the field of sight can it be concluded that it is seen from an eye.
LWは喩えのセンスがすごくいいと思う。喩えに納得するというのも変な話だが、読み進む上で助けになることは確かだ。
6.52 We feel that even if all possible scientific questions be answered, the problems of life have still not been touched at all. Of course there is then no question left, and just this is the answer.
この皮肉っぷりも、すごくかっこいい。答えられるのは科学の問い(questions)だけ、それ以外(problem)は、そもそも問いの立て方がおかしい、という断言。
かなりの読み応えがあった。5.254で〜〜pとpを同じものとして扱っているところなど、古典論理に収まりすぎた印象を受けないでもないが、とにかく「かっこいい」という印象は受けた。
(2002.6.15)
翻訳とは責任の大きな仕事である。
ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考。僕はドイツ語が読めないので翻訳を読んでいるわけだが、本によって訳し方が全然違うので、不安になる。坂井秀寿先生の訳で「描写」とあって、「なんだこれは」と思って奥雅博先生の訳を参照したら、「写像」となっていた。
奥先生の本で「命題は世界の射影」となっているところが、坂井先生では「命題は世界の投影」だ。なんだか大切なニュアンスが失われてしまっているような気がするが、あるいは原文にそんなニュアンスが無いのだろうか。ドイツ語を学んでこなかったことが悔やまれる。青色本や茶色本だったら、わからない時に英文を参照することが出来たのだが。
SinnとBedeutungは奥先生が「意義」「意味」と区別しているが、坂井先生はまったく逆で、「意味」「意義」と訳す。どちらが一般的なのだろうか。だが、訳し方の問題は別として、この区別自体が興味深い。Satz(命題)はSinnをausdrucken(表現)し、Name(名)はBedeutungをbezeichnen(指示)するのだそうだ。
(2002.5.24)
訳者との旅
論理哲学論考。英独対訳版を借りてきた。現在、ふたつの日本語訳と英文を並べながら読み進めている。
先日は坂井先生の訳に疑問符を投げかけてしまったが、こうして読んでいると、助けられることも多い。特に3.342などは英文でも奥先生訳でもよく分からず、坂井訳を参照してやっと意味を掴めたように思った。
英文では
「In our notation there is indeed something arbitrary, but this is not arbitrary, namely that if we have determined anything arbitrarily, then something else must be the case. (This results from the essence of the notation.)」
arbitaryやarbitarilyが何回も出てきて、わけがわからない。
奥訳は
「我々の表記法にはたしかに任意なことがあるものの、しかし次のことは任意ではない。即ち、我々があることを任意に決定した場合には、その他のあることが実情とならざるをえない、ということである。(このことは表記法の本質に依存している。)」
坂井訳。
「記号の選択には、気まぐれな要素があることはたしかである。しかし、いったんわれわれがある事柄を任意に決定すると、それに応じて他の事柄もきまらなければならないということ、その事実は動かしがたい。これは、記号選択の本質にもとづいている。」
caseとか実情とか言われてもよく分からなくて、坂井訳で「きまらなければならない」と言われてやっと分かった気がした。「気まぐれ」というくだけた表現や、最後の文の括弧が無くなっていたりすることに驚くが、分かりやすい訳であることは確かだ。
それにしても坂井訳の傑作は、4.121にある以下の一文だろう。
英文だと
「The propositions show the logical form of reality.」
独文だと
「Der Satz zeigt die logische Form der Wirklichkeit.」
になっているところが、
「命題は実在の論理的形式を悟らせる。」
悟りである。他の箇所ではzeigtあるいはshowを「示す」と訳しているにも関わらず、ここは「悟らせる」なのだ。原著者の意図を汲み取って、思い切った用語の選択。けだし名訳と言えよう。
(2002.5.28)
「もの言語」と「こと言語」
ヴィトゲンシュタインがオブジェクト指向言語を見たら、どう思うだろうか。たとえば論理哲学論考では、世界は「もの」の集まりではなく「こと」の集まりだと主張されている。
論理哲学論考
1.1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。
だがあいにく人間は世界を「もの」の集まりと捉える方が得意らしい。普段から世界を「もの」を単位にして見ているため、プログラムの世界でも同様に記述した方がわかりやすいのだ。
では、「もの」と「こと」の違いとは何だろうか。
「こと」は、論理学における命題に相当すると考えて良い。「もの」はどうか。一項述語、すなわち属性は「外延(=クラス)」を持つ。Aという属性がある場合、Axが真になるxの集合はAの外延と呼ばれる。我々が通常「もの」と呼んでいるのは、なんらかの外延の元である。オブジェクト指向にクラスという言葉があるが、クラスは外延に相当し、インスタンス、すなわち「もの」はその元である。
実際、オブジェクト指向言語の重要な特徴のひとつは、各インスタンスが属性を保持し続けることである。C言語の関数は返ったあとにはスタックから消えてしまう。一方、Javaのインスタンスはヒープ上で属性を保持しつづける。あたかもそこに「もの」が存在しつづけているかのように。
オブジェクト指向の様々な特徴には、属性が絡んでいることが多い。たとえば継承関係は、型という属性の間の(高階の)関係である。型Bが型Aを継承している時、BとAの間には ∀x.(Bx→Ax) という関係が成り立つ。すなわち型Bの外延は、型Aの外延の部分集合になる。言い換えると、クラスBのインスタンスはすべて型Aのインスタンスでもあるということだ。
一項述語は属性と呼ばれ、多項述語は関係と呼ばれる。オブジェクト指向の言語自体に「関係」の概念が組み込まれている例は少ない。
むしろ関係といえば、PrologやmakeやSQLのような宣言型言語である。「もの」を扱うオブジェクト指向言語とは対照的に、これらの言語では「こと」に焦点が当てられる。関係データベースも、「こと」を蓄えるデータベースシステムである。
データベースの世界でも、「もの」化を進めようとする動きがあった。オブジェクト指向データベースが関係データベースを置き換えるのではないかと期待されたが、完全な置き換えは生じなかった。あえて「もの」化する必要のないデータも多いのだ。たとえば購入履歴のテーブルを考えてみる。個々の購入を「もの」と呼ぶのは、「もの」という言葉の意味を広げすぎではないだろうか。
まとめて言うのなら、複雑怪奇な制御の流れにオブジェクトを浮かべて「もの」化したのがオブジェクト指向言語。パワフルな処理系の実装によって「こと」の記述だけで問題を解決させることを目指したのが宣言型言語。こんなところであろうか。
(2003.9.23)
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