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【体験報告】 長崎でカクレキリシタンの人に会う
九州には今も『マリア観音』を拝んでいる『隠れキリシタン』の人たちがいる。その話を旅行好きの先輩から聞かされた時、すぐには信じられなかった。
こんな話は聞いたことがある。明治になってキリスト教が公認された際、数百年ぶりに神父さんが日本にやってきた。するとある町で農民の一団が神父の前にひざまずき、こう言った。
「私たちの村では代々、人目を忍んでイエス様を信じ続けてきました。今、こうして神父様にお会いすることができて、この上ない幸せです」
この話はカトリックの信者の間では「東洋の奇跡」などと呼ばれ、広く知られているらしい。 だが、彼らはその時カトリックに改宗したのではなかったのか。彼らとは別に、今も「マリア観音」を拝んでいる人々がいるということか?
隠れキリシタンの集落は天草にあると聞いたので、熊本県庁に電話してみた。すると、天草観光協会に電話するよう言われた。 観光協会の人に聞くと、天草にはほとんど残っていないとのこと。だが、長崎には「隠れキリシタンの島」があると教えてくれた。
長崎県庁の観光課に電話して聞いてみる。それはきっと生月島(いきつきじま)だろうと言われ、生月町観光協会に電話。そこからさらに生月町博物館にまわされた。この博物館は隠れキリシタンに関する展示が充実しているらしい。学芸員の中園先生がくわしく説明してくださった。
現在の生月島にはカトリックも多いが、江戸時代の信仰を続ける隠れキリシタンの人もたくさんいる。博物館では毎年五月と十月、隠れキリシタンの方をお呼びし、「おらしょ」と呼ばれるお経のようなものを唱えてもらうそうだ。それを見にくれば良いと言ってもらったが、五月と十月には九州に行く時間がなかった。それ以外の時期に隠れキリシタンの方にお会いできないものか、お願いしてみる。書類で申請してもらえないかと言われ、手紙を出した。だが、すぐには返事が来ない。来ないうちに、僕が九州方面に行く日がやってきた。再度電話するのは催促しているようで、気がひけた。そこで、単なる観光客として博物館を訪ねることにした。運が良ければ中園先生とお会いして、いろいろとお話を聞けるだろう。
生月島は、九州の北西の端、平戸島のさらに北西に位置する人口9000人の島。博多から佐世保までが特急で二時間、佐世保から平戸まで特急バスで一時間、さらに別のバスに乗り換えて三十分。県庁所在地の長崎から行くにしても、四時間は掛かる。なんて不便な場所だ。行くだけで半日掛かってしまう。
僕は長崎駅から快速列車に乗った。電話を掛けなくてはならない用事があって、隣のおじさんに「携帯を使っていいですか」と訊ねたところ、「どーぞ、どーぞ」と了承をもらった。だが、列車がトンネルに入ったため、すぐに切れてしまった。 するとおじさんは笑いながら、 「このへんはトンネルが多いからね。このトンネルは、抜けるのに三分も掛かるんだよ」 僕が隠れキリシタンの島を訪ねるのだと言うと、 「長崎純心大学で学長をされている片岡チヅコ先生が、隠れキリシタン研究における権威みたいですよ」 なぜそんなにくわしいのか。謎のおじさんであった。
佐世保で松浦鉄道に乗り換え、バスを二回乗り継ぐ。平成三年に架けられた生月大橋によって、本土と繋がっている。それ以前はフェリーでなければ渡れなかったとのこと。
島に入ってすぐの「生月大橋公園前」のバス停で降りた時、すでに午後五時をまわっていた。博物館以外に行くあてがないが、たぶんもう閉まっていることだろう。だが、とにかく行ってみることにした。案内板の指示に従って、海岸からの坂道をあがっていく。「潮見ニュータウン」と書かれた看板があった。こんなところにニュータウン。引っ越してくるのはどんな人たちなのだろう。
博物館のすぐ前に来た時に、電信柱に掛けられた拡声器からアナウンスが流れてきた。役場からの放送だった。今夜午後六時半から、盆踊りが行なわれるらしい。盆踊り。隠れキリシタンの島で盆踊り。これは行かねばなるまい。
生月町博物館はコンクリートの外壁に採光用のガラスを効果的に取り込んだ、綺麗な建物だった。掃除用具を手に持ったゴム長靴のおばさんが中に入ろうとしていたので、 「まだ開いていますか」 「大丈夫ですよ」 言われたのを幸いに、おばさんの後に続く。左手に事務室がある。覗き込んで、「すいません、中園先生はいらっしゃいますか。お手紙を出した者なんですが」 新聞から目を上げた四角い顔のおじさん。肌は浅黒いが、インテリっぽい風貌だ。 「今日はお昼頃に帰られましたよ」 ゴム長靴のおばさんが後ろから、 「お盆休みをとられているんです。ここ数日、とてもお忙しかったですから」 がっかりしている僕を見て、 「展示を見ていかれます?」 閉館時刻を過ぎていたのだが、展示を見させてもらった。捕鯨の話が中心で、隠れキリシタンのコーナーは二階の半分を占めるだけであった。それでも充分興味深い内容だった。生月は捕鯨でも有名なのだ。ただし、現在はもう行なっていない。 禁教時代、キリシタンの神さまは納戸の奥にこっそり祭られていた。それゆえに「納戸神様(ナンドガミサマ)」と呼ばれている。明治になってカトリックの神父が生月にやってきて、「納戸神とキリスト教が同一であることを説いたが、受け入れられなかった」と書かれていた。 また、現在もカトリックに改宗していない人々に関しては、「隠れキリシタン」ではなく「カクレキリシタン」と表記されていた。「隠れ」と書くと何か人目をはばかって信じているようなマイナスイメージが伴うが、現在の隠れキリシタンには後ろめたいことなど何もないわけで、そのためあえてカタカナで記すという冗談のような配慮がなされていた。以後、僕もこの表記に従うことにする。 印象に残った写真があった。着物を着たお母さんに連れられた子供が、白髪のおじさんから「洗礼」を受けている写真。正確には、カクレキリシタンの用語で「お授け」と呼ぶらしい。潜伏の歴史の中でカクレキリシタンの信仰には大きな変容があったというが、少なくとも洗礼はしっかり残っていたのだ。
ひとりで感心していると、背の高いお兄さんが階段を上がってきた。「閉館しますんで、申し訳ありません・・・お盆だから、みんなお墓参りに行くんですよ・・・」 いつもはもう少し遅くまで開いているのだろうか。たとえ閉館時間が過ぎても、しばらくいれそうな雰囲気だ。お兄さんに、盆踊り会場の場所を聞いた。それほど遠くないとのことだった。だがとりあえず、暗くなる前にテントを張っておきたかった。博物館の前に張るか、盆踊り会場の近くに張るかで迷ったが、朝一番で中園先生にお会いしたかったこと、見晴らしが良く、海も見えること、そして近くに水場もあることを考え、博物館の前に決めた。
寝床の準備が整ったので、盆踊り会場に向かった。坂を降りて、バス道を歩くと、右手は海、左手はいくつかお店が並んでいる。閉まっている店も多いが、お盆のせいかも知れない。博物館で見たガイドマップによれば、壱部と舘浦というのが大きな集落らしい。僕が歩いているのは舘浦だ。 薬局で虫除けスプレーを買った。隣には本屋があった。 盆踊り会場は海に面したコンクリート舗装の広場だった。船の積荷を下ろすための場所だろう。着いた時、すでに盆踊りの真っ最中だった。歌詞に「イキツキ」という言葉が入っているので、生月音頭なのだろう。子供が多いが、高校生くらいの女の子も混ざっている。同じ柄のTシャツを着たお兄さんたちが何人か踊っているのは、お祭りのスタッフなのだろう。子供もお兄さんも、みなしっかり踊っていた。
ふと、博物館の展示にあった説明を思い出した。『弾圧の時代にキリスト教を維持するためには、集落全体、村全体が信者である必要があったのです』。盆踊りの圧倒的な力、人生の夏を謳歌するような享楽のお祭りの前に、キリシタンの信仰を維持できるのだろうか。そんな余計な心配をした。 屋台の数は少ないが、人の数はたくさんだ。若い男の子や女の子もいる。活気がある。スタッフのお兄さんに缶ビールをもらった。僕と同じ年くらいの年齢に思われた。 「スタッフの皆さんは何才くらいなんですかね」 「だいたい、二十三から、二十四といったところです」 お兄さんが着ているTシャツには、鮮やかな色で「ISF」と書かれている。Ikitsuki Summer Festivalの略だそうだ。 やがて花火大会が始まった。海の上で打ち上げる。人が桟橋に立ち並んだ。それほど大きくは無いが、綺麗な花火が多かった。花火の途中で会場を出た。本屋がまだ開いていた。立ち寄る。 本と文房具を売る店だった。店の奥に腰掛けて、膝の上で猫を撫でているおじさんは、四角い眼鏡がよく似合っていた。その横でロングパーマのおばちゃんが子供の相手をしていた。足元では小さな灰色の犬がじゃれついている。 「すいません、カクレキリシタン関係の本を探しているんですが・・・」 おじちゃんはすっと立ち上がって、奥の本棚に行くと、 「これと・・・これかな」 新書と分厚い単行本の二冊を取り出してくれた。新書の方は『カクレキリシタン オラショ―魂の通奏低音』とうタイトルで、宮崎賢太郎という先生によって書かれている。単行本は『生月史稿』といって、著者は近藤儀左ヱ門さんという人。 「儀左ヱ門さんは、すぐ近所の人でね」 実家は造り酒屋だったが、ご本人は医者をして、町長も務めたらしい。ぱらぱらと頁をめくりながら、 「今日は、盆踊りみたいですけど。この集落はカクレキリシタンでは無いんですね」と尋ねると、 「ここは少ないね。舘浦は浄土宗の集落だから。山田はキリシタンだけどね」 「集落ごとに違うんですか・・・」 「言葉も違うよ。僕は仕事で向こうに行くことがあるから、混ざってしまったけど」と、真面目な顔で言う。 「昔はそれほど交流が無かったってことですかね。それとも舘浦は新しい集落なんでしょうか」 「いや、舘浦も昔はキリシタンだったんだ。けど、お祭りの時に大勢で集まってね。大変でしょ。そういうのが若い人にウケなくてね。廃れてしまったみたいね」 弾圧よりも強い世代間格差、といったところか。 「奥の山田と壱部はキリシタンだけど、ここは違うんだよ」 僕は勝手に予想する。舘浦は海辺の街であって、平戸との行き来が多かったから、キリシタンの習俗が薄まってしまったのではないだろうか。 「山田の人は、この盆踊りには降りてこないんでしょうか」 「降りてこないよ!」 「むこうでは盆踊りをしないんですか」 「山田の人らは行事をあまり公にしないからね」 「不思議ですよね。今さら隠すことも無いのに。どうしてでしょうか」 おじさんが首をかしげるので、僕は自分なりの説明を試みた。 「仏教とキリスト教の二重構造を持っていることが、仏教徒に対して後ろめたく感じているんですかね」 「そうよ、きっとそうね」おばちゃんが嬉しそうに頷いた。 だが後になって考えると、この仮説はまったくの的外れだった。キリシタンは仏教行事を否定しているわけではない。山田の人が盆踊りに来ないのは、単にこれが舘浦の行事だからである。 客が急に増えてきた。花火大会が終わったのだ。僕は薦められた新書と単行本を購入した。レジに立ったおばちゃんが、 「明日は須古踊りっていうお祭りがあってね。見に来るといいわよ。姫宮神社を出てね、市役所やお寺をまわって。旧家に入って踊ってくださったりするんです。うちにも来てくるんですけどね」 さりげなく自分の家に触れてしまうところ、可愛らしい。店を出る時、 「また遊びに来てくださいねぇ」 ずいぶん人なつこいおばさんだった。 本屋の隣に交番がある。その前に座り込んで、話した内容をメモにとる。お祭りの警備にあたっていたお巡りさんがふたり、僕の手帳を覗き込んだ。 「何を書いているの」 「思ったこととか、考えたことです」 「ふーん」 「カクレキリシタンに興味があって」 「最近、そういう人が多いね。研究?」 「いえ。単なる興味です」 左側のお巡りさんがしゃがみこんだ。右側のお巡りさんは制服に「課長」という札をつけている。 「舘浦はキリシタンの集落では無いみたいですね」と僕が言うと、 「いや、舘浦もキリシタンよ」 「あれ?。さっきの話と違うな。さては“隠して”るんですかね」 笑われた。 「地図があるばってん、持ってきます」 中に入って、博物館でもらったのと同じ地図をもって出てこられた。その上に指をすべらせて、 「この、アントー様と書かれているのが、弾圧の地です」 「殉教地ですか」 「そう、殉教地。でもここの人は『惨殺』って呼ぶんです。『キリシタンの惨殺』ってね」 「お巡りさんは生月の人じゃないんですか」 「我々は違います。転勤してますからね。生まれは長崎市。こっちのことは、分かりません」 通行人が増えてきたので、ふたりは定位置に戻った。僕は同じ場所でメモを取り続けた。すると目の前をばたばたと駆けて行く人があって、見れば本屋のおばちゃんだった。お巡りさんたちに大声で尋ねている。 「子供から預かったシーズ犬、逃げてしまったんですぅ!」 本屋の店内を無精そうに歩き回っていた小さな犬のことだろう。それほど活発な犬には見えなかったので、やがて見つかるだろうと思っていると、案の定、数分してからまたばたばたと駆けてきて、 「シーズ犬、見つかりました!」 仕草がまるでペンギンみたいだと思った。お巡りさんにしきりに礼を言っていた。「良かったですね」と声をかけると、僕にまで「ありがとうございます!」と言っていた。 街灯に照らされた明るい道をテントまで戻った。テントの前に座って海を見ていると、昼のよう明るい照明をつけた船が通った。イカ釣り漁船らしかった。 朝。目覚ましが鳴ったのと、バイクのエンジンの音が聞こえたのと、どちらが先だったのか覚えていない。起きた時にはどちらも聞こえていた。テントのファスナーを開けると、原付におばちゃんがエンジンをふかしていた。うるさくてごめんなさいと謝られる。新聞か何かを届に来たのだろうか。時刻は既に七時をまわっていた。
パンとお茶で簡単な朝食を済ませた。シャツを洗って、柵に掛けて干した。八時半になって、目の前に車が止まった。四十才くらいの、がっしりした体格の人物が車を降りる。 「すいません、中園先生でらっしゃいますか」 「そうですけど」 「お手紙を出した手塚です」 一瞬、戸惑った表情を見せられる。 「すいません、突然来てしまって」 穏やかな口調で、 「お返事を出したんですけど、まだ届いていませんか」 行き違いになっていたようだ。数日前から九州に来ている旨を伝える。そうですか、では中でお話しましょうと言われ、館内に入った。玄関先のテントを見て、お客さんが来るので片付けてもらえますかと頼まれた。 テントをたたんでいる際、目の前に軽自動車が停まった。小柄なスーツ姿のおじいさんが降りてきて、軽く会釈すると、館内に入っていった。急ぎテントをしまい、事務室に戻った。低いテーブルを挟んで中園先生と向き合う。すると先生は嬉しそうに、 「手塚さんは運がいいですね。今、カクレキリシタンの人が来られているんですよ。あとでお話しましょう」 博物館にご神体を寄贈したのだが、自分が生きている間は拝み続けたいということで定期的に来られているのだそうだ。 職員の女性がお茶を運んできてくださった。 「昨夜、本屋のご主人さんとお話したんですけど、舘浦にはカクレキリシタンが少ないそうですね」 「そーうですね。山田、元触、境目、壱部に多いですけど」 「舘浦は浄土宗の地域なのですか」 先生は首を振って、 「キリシタンの集落だから仏教を拒絶するということは無いですよ。山田と舘浦を合わせてお寺がひとつ。それから壱部にもお寺があります。昨晩はしょうろう流しも行なったんじゃないかな」 「え、そうなんですか」 しょうろう流しを見逃してしまった。残念。 「ここをキリシタンの隠れ里のように考えている人がいるみたいですが、それは違います。迫害を逃れたキリシタンが移り住んだなどということはありません。禁教前にキリシタンがいなかった地域に、後からキリシタンが入ってきたという例は無いんです」 学者らしい口調で言った。 「『離島だからカクレキリシタンが残った』という考え方も、事実と違う。江戸時代の島は外部と密接な繋がりを持っていたんです。たとえば生月の『鯨組』は捕鯨の専門家集団であって、各地から様々な人間が集まっていました。逆に、島内の人間が港湾建設や新田開発の労働力として働きに出ることも多かった。下関港の建設には生月の人間が関わっているんですよ」 「それだけ多くの人が出入りしていたのに、どうしてキリシタンであることがバレなかったんですかね」 素朴な疑問をぶつけると、 「おそらくその頃までには、仏教や神道との習合がかなり進んでいたのでしょう。『天草くずれ』というのがありましたが、全員、『心得違い』として放免になっています。教義自体は早くに失われて、本人たちも行事の意味が分からなくなっていたんではないでしょうか」 形だけ残って、意味が変わってしまったのだ。 「実は今日も、正和組という組の最後の集まりがありましてね」 「え」 「一年間だけ行事を続けてもらえるようお願いして、記録をとっていたんですが。今日で最後なんですよ」 僕は物欲しそうな顔で先生を見つめたが、 「申し訳ありませんが、突然見に行くというのは失礼になるかと思うので」 連れて行ってもらえなかった。 中園先生はもともと生月の人ではない。だから、人間関係には格別の気を遣っているのだろう。何か失礼なことがあったら、その途端に研究が続けられなくなってしまうのだ。慎重になるのも当然だろう。だいたい僕は怪しすぎる。話を元に戻して、 「この島でキリシタンが残った理由は、離島だからというより、港湾建設や新田開発といった副業によってコミュニティが維持されてきたことが大きいと思います。近年、カクレキリシタンの組が解散していく一番の理由は、まきあみ漁の衰退ですよ」 昭和の初め頃からまきあみ漁が盛んで、幾艘もの漁船で船団を組み、大きな網で魚の群れをまるごと捕まえていたそうだ。ところが昨年、壱部のまきあみ船団が解散し、舘浦に残るだけとなってしまった。仕事が無くなれば、働き手は島を出る。そして行事を継承していく人間がいなくなってしまう。 「信者はご高齢の方が多いんですか」 「六十以上の方がほとんどですね」 「若い人で熱心な方はおられないんでしょうか」 「若干」 「その方々は、どうしてカクレキリシタンに惹かれたのでしょう?」 「お父さんが、熱心に行なわれていたみたいです」 やはり、信仰というより伝統なのだ。先祖が祭っていたから、それを大切にする。教義を信じているからではなくて。 先生から聞いた話。博物館から二キロメートルほどの海沿いに、『ダンジク様』と呼ばれる聖地がある。伝承によれば、キリシタンの家族がダンジク(暖竹)の茂みに隠れていたが、子供が遊んでいるところを役人に見つかって、処刑されてしまった。観光ガイドにも載っている有名な話だ。だが、先生はこれに興味深い解釈を加える。 「あれは、聖家族のエジプト逃避の絵を地元の殉教者の話として説明することから生まれてきたのではないか。そんな風に考える研究者もいるんです」 ヘロデ王の嬰児殺しから逃げたヨセフ、マリア、イエスの一家。その絵に、まったく違う意味付けが与えられたのだ。絵が伝説を生む。教義が消えても、形だけ残る。 「生月島のクリスマスは、安産を願う行事に置き換わってしまっているみたいですね」 「ええ。でも、中世カトリックのクリスマスにそういう側面が無かったとは言い切れない。現代のカトリックと比較してはだめです」 「なるほど。でも、生月島のクリスマスには救世主の生誕という考え方は無いんですよね」 「それは無くなっていますね」 クリスマスがそこまで変わってしまうというのは、すごいことだ。しかしそれを言うなら、現代の日本のクリスマスも似たようなものであるが。それに、たしか聖書にもクリスマスを祝えとは書かれていないはずだ。 「当時の宣教師の報告を読んでも、『日本人がキリスト教の教義に導かれて入信した』としか書かれていないのですが、本当にその通りであったのかどうかは分かりません。もっと、日本ナイズした形で伝えていた可能性もあります」 極端な話、宣教師自らが『クリスマスには安産のご利益がある』とか、『マリアを祭らないとタタリがある』などと言って布教していたかも知れない。記録が無いので、何とも言えない。それこそ、神のみぞ知る、である。 「納戸様に祭られるご神体と、殉教者の関係はどうなっているんですかね」 「納戸様の性格というのはあまり問題ではなくて、『もの』として先祖から伝えられているから祭るみたいです。けれど往々にして、納戸神様は殉教者ではないかと解釈される」 キリストやマリアはどこへ行ってしまったのか。 「だとしたら、殉教者はどうして殺されたと考えているんですか」 「それは、禁教で」 「禁じられた宗教の内容は問わないわけですか」 「教義に対する信仰は薄れていましたからね」 「納戸様が外国から伝わったという認識はあるんでしょうか」 「今では外からの情報が入ってきてしまっていますからね。潜伏期の認識を再現することはかなり難しい。けれど少なくとも生月では、納戸様を外国の神様と認識していたという証拠は確認されていません。他の島では外国から伝わったという伝承も残っているみたいですが」 考えてみれば、大黒様なども本来はインドの神様だ。だが外国産であることがほとんど意識されない。キリシタンだけが特別なわけではない。カクレキリシタンがカトリックに入らないのは、大黒様を信じている人がインドの宗教を受け入れられないのと同じようなものかも知れない。 「宮崎先生はカクレキリシタンを『殉教者に対するタタリ信仰』と考えておられるようですが。それだけと言い切れるかどうかは分からないにしても、日本的な要素がかなり入り込んでいることは確かですね」 宮崎先生は僕が昨夜購入した新書の著者である。 「現在はカトリックとカクレキリシタンの間で確執があったりしないんですか」 「明治の頃はあったみたいですが、今ではほとんどありません。問題のひとつとしては婚姻がありましたが、最近はカトリックが他宗派との結婚の禁止を緩めているんで」 ひとつ、気になることがあった。 「明治の頃、カクレキリシタンからカトリックに改宗した人がたくさんいたんですよね。いろいろな神様を祭ってきたのに、それらを全て捨てて納戸神様を選んだ理由は、何だったんでしょうかね」 中園先生はその理由はまだよく分からないと答えた。ひょっとしたら、カクレキリシタンの信仰が神道や仏教と完全に融合していたのではないのかも知れない、と僕は思った。 「それから、これは本屋さんで聞いた話なんですが、カクレキリシタンの人たちは本当に自分たちの信仰を隠す傾向があるんでしょうか」 先生は「うーん」と言って腕を組んだ。 「隠すことには、三つの様相があると思うんです。ひとつは、ご神体を隠すこと」 これは仏教や神道にも見うけられる。秘仏、といった表現がある。 「それから、行事を部外者の目から隠すこと、そして最後に、信仰自体を隠すこと」 最後の様相は、カクレキリシタン固有の特徴と言えるだろう。しかし、もはや禁教時代ではないのに、なぜ隠すのだろう。伝統、ということか。それらの様相は現在では弱まっている、と中園先生は言って、最後に付け加えた。 「昭和六年に信仰の潜伏状態が解けるのは、研究者の手によってなんです。そして研究者に示したことで、カクレキリシタンの人たちに度胸がついて、隠さなくなっていった。それまで納戸に祭っていたご神体を、祭壇に移したりもしたんです」 調査が調査対象に変化をもたらしてしまう。フィールドワークが抱える普遍的なジレンマといったところか。 やがて二階からカクレキリシタンの方が降りて来られた。さきほどテント前でお見かけしたおじいさんだった。年は六十才くらい。石橋さんというお名前。事務室の奥にある、畳敷きの居間に移動した。肩にかけたアイスボックスから缶ビールと刺身を取り出して、僕と中園先生に勧めてくれた。 「酒は、飲みますか」と僕に聞く。 「夜は飲みますけど。朝からはあんまり」 「ほう」 刺身はとてもおいしかった。醤油は生月製だった。酒は平戸の「福鶴」という銘柄だ。中園先生は人なつこい九州弁に切り替わり、 「いや、けっこうなものを、ありがとうございますなぁあ」 石橋さんは不審な来訪者である僕のことを怪訝そうな顔で見て、 「拝む人、私しかいないんです」 「毎日、拝みに来られているんですか」 「いえいえ、朝夕は無理ですから。正月とお盆に、拝みに来ているんです。私が生きている間は続けるつもりです」 石橋さんは農業を営んでいる。けれど、息子さんは漁業だ。刺身は息子さんが職場でもらってきたらしい。僕が昨晩博物館の前で泊まっていたと中園先生が教えると、 「テントで寝てるんなら、ダンジク様のところで寝たらいいのにね。広いしね」 「たしかに、寝れますね」笑いながら応じる中園先生。 「あそこを綺麗にしたら、観光客もたくさん訪れるだろうにね」 カクレキリシタンの方からそのようなことを聞くとは予想していなかったので、意外な気がした。 「それって、良いことなんでしょうか」 「町にとってはね」中園先生が皮肉めかして言うので、 「石橋さんとしてはどうですか」 「悪いことじゃぁないと思うよ」 案外、進歩的な人なのかも知れないと思った。 ダンジク様は正月の十五日に草払いを行ない、十六日に行事を行なうそうだ。 「何人くらいで行なわれるんですか」 「五軒ありましてね。昔はもっとあったんだけども。はがれていって」 離れていくことを、はがれていくと言う。雰囲気のある言葉だ。 「御前様(ゴゼンサマ)の組で行なうんですよね」中園先生が確認した。御前様は納戸神様の別名だ。 「いえ、同じじゃないです」石橋さんが答える。「富岡さんはダンジク様では一緒ですが、御前様の組は違います」 「え、一致しないんですか」 「一致しませんな」 「そーですか、富岡さんは御前様の組には入っていないんですか」 先生の眼が研究者の眼に切り替わったように思えた。 僕は石橋さんに質問した。 「行事の時は、おらしょを唱えられるんですよね。暗記されるのって、大変じゃなかったですか」 「いえ、暗記はしていません。本です」 「今も宙読み(ちゅうよみ)できるのは、誰々さんと誰々さんくらいのもんだね」 山田では本を使うことが多いらしい。だが壱部の集落では今も宙読みが中心だという。 「おらしょというのは、場所によって声の大きさや出し方がまったく違うんですね。どこどこの集落では、小さな声で口の中で呟かれていて。別の集落では一瞬で終わってしまいましたし」 「私ば、どうしても四十分は掛かるもんなぁ」と石橋さんが言う。言いながら、僕の前にビール瓶を差し出した。僕はグラスを半分だけ空けた。僕が手帳に書き込んでいるのを見て、 「写真を撮らずに、話を聞くだけ?」 「撮ることもありますが、お話を書き留める方が面白いです。あ、でも、ご一緒にお写真を撮らせていただけたらすごく嬉しいですけど」 いいよ、と言ってもらえた。 昨晩、舘浦で花火を見たことを言うと、 「壱部の花火大会は今年から無くなりましたからねぇ」 まきあみ船団が解散したので、打ち上げられなくなったという。 「最近の壱部は寂しいもんですよ」 中園先生がため息をつき、石橋さんが頷いた。 「そろそろでしょうかね、先生」 時計を見ながら言った。 「ええ、すいません。十一時に待ち合わせしているもので」 刺身や酒を冷蔵庫に片付けて事務室を出た。あらためて石橋さんに 「すいません、写真を撮らせていただけますか」 すると襟元を正しながら、 「今日は着物を着て来たかったばってんが。夏やからね」 車の前で一緒に写真を撮ってから、聞き忘れていたことを尋ねた。 「今日、拝みに来られたご神体が、一番大切な神様ですか」 「そう、一番大切な神様だね」 なんだか安心する。 「御前様は五年ごとに持ち回りだったんだが。もう、引き受けている人がいないもんで。博物館に寄贈することにしたんだよ」石橋さんは運転席に腰を降ろし、「中園先生は今日もどこか行くのかね」 「正和の最後の行事を記録するみたいです」 「ほう。それで、あなたは行かれないの」 「事前に連絡せずに参加するのは良くないと言われまして」 「そんな、気にするようなこともありませんのに。先生も、自分が研究してから人に見せようと考えているから」と、いたずらっぽい眼で笑った。さすがにそれは考えすぎではないかとも思ったが、石橋さんが中園先生を見る眼がなかなか冷静であることを面白く感じた。
事務室に戻ると、中園先生は既に出ていってしまった後だった。ひとりで館内をぶらついた。入館料が必要であることを、この時気付いた。昨夜は無料で見せてもらっていたのだ。今度は入場料を払った。 昨夜、写真の中でカクレキリシタンの人たちは古代の彫像のように凍り付いていたが、今は血が通って生きた顔に見える。石橋さんの顔と重なりあっているのだろう。 博物館横の喫茶店で文章をまとめた。中園先生に去り際の挨拶していなかったことが気に掛かって、帰ってこられるのを待った。だが、なかなか戻ってこられない。 夕方まで、壱部の集落に行ってみることにした。目当ての場所があるわけではないが、生月町の役場は壱部にある。何か面白い資料が置いてあるかも知れない。 これから壱部に行きますと言うと、背の高い職員のお兄さんが車に乗せてくれた。昨日、閉館を教えてくれたお兄さんだ。海辺の道を走りながら、 「生月、どうですか。想像していたのと違うでしょ」 人なつこそうな口調で話し掛けられた。 「いえ、ホームページでいろいろ調べていましたから。ある程度、こんな所だろうと予想していました」 「キリシタンの人、少ないでしょう。島の人口が八千人で、カクレキリシタンの人は千人くらいだったかな」 「お兄さんも、キリシタンでは無いんですよね」 「うちは違います。父は高知から来ましたから。母はここの人間ですけど。家は神道です」 愉快そうに、「館長なんて、神社の宮司なんですよ」と教えてくれる。 「姫宮神社の?」 「そうです。今日は須古踊りが神社にやってくるから。遅れてきたんです」 車が舘浦を過ぎて、山と海の間を走った。 「自分もカクレキリシタンについては、博物館で働くようになってからくわしく知るようになったくらいなもんで」 「キリシタンのお知り合いは少ないんでしょうか」 「同年にひとりいましたけど。『家はカクレキリシタン』っていうだけで、本人は信じていないって、言ってました。行事にも参加していないみたいだし」 実際、キリシタンの儀式というのは相当に複雑で面倒なもののようだ。若い世代が引き継いでいくとは思えない。消えてなくなるのは、時間の問題だと思った。 「僕が博物館の展示で一番感動したのは、洗礼の写真なんです。四百年間も、しっかりと受け継がれているるんですね」 「はー、洗礼ですか。でも、今は本人の意志を尊重するそうですよ。強制できないみたいで」 「では、御同年のお友達も洗礼を受けておられないんですか」 「受けてないみたいですね」 右手に漁港、左手に民家の連なり。壱部だな、と思った。 「どこで降ろしたらいいでしょうかね」 役場の前を通り過ぎてしまったようだ。そこで昨晩お巡りさんに教えられた地名を思い出して、 「アントー様っていうのは、近いですか」 「それはちょっと遠い・・・」 「他に聖地みたいな場所、無いですかね」 「・・・オヤシキ様くらいかな」 「そこにお願いします」 細い道を抜けて辿り付いたオヤシキ様は、小さな児童公園であった。片隅にお堂が祭られている。桃色がかったコンクリートの壁に、茶色いお寺風の屋根。
「壱部を治めていた領主のお屋敷だったんです」 領主はキリシタンだったという。 「処刑されちゃったんですか」 「いえ、確か長崎に逃げたはずです・・・」 処刑こそされていないが、滅亡してしまった一族の霊を祭っている。宮崎先生の説にある通り、怨霊信仰に近いのかも知れない。
「すいません、博物館で金子くんがひとりで待ってるんで。もう戻りますわ」言いながら、あわただしく車に戻っていった。 坂道を降りると、港に出た。屈強そうな初老のおじさんたちが水際に集まっている。小学生くらいの男の子と女の子もいる。「釣りですか」と声をかけると、タコツボを陸に移すのだと教えてくれた。
女の子が僕の隣に腰を降ろし、 「兄ちゃんも手伝って行けばよか」 かわいらしい長崎弁で声を掛けられたので、手伝ってしまう。大量のタコツボを船の上から陸に運ぶ。ツボ同士は互いに紐で結び付けられているので、大勢で流れ作業で運んで行かなくてはならない。 女の子がタコツボを両脇に抱え、とことこ走りながら言う。 「百二十個運んだ。これで千二百円!」 女の子はふたりいて、どちらも小学生くらいだが、ひとりは真面目に行き来しているのに、年下の子の方はすぐに座り込んでしまう。 頬かむりをしたおばちゃんが僕のところにやってきて言った。 「住所を教えてくれたら、タコを送るからね。給料を出せない代わりにね」 僕は自分が京都から来たことを説明した。 おじさんのひとりがタコツボの中から数の子のような白い塊を取り出して、僕の前に差し出した。 「タコのタマゴだけど。食べてみな」 淡い塩気のある、不思議な味だった。
「三倍酢で食べると本当にうまい。京都なら、杯いっぱいでウン万円するんよ」 「あとでうちにおいで。今夜は焼肉だけど。タコのタマゴもあるから」 突然お邪魔していいものか迷ったが、タコのタマゴの三倍酢は魅力的に過ぎた。 「明日、タコツボ漁に行くけど、ついてこなか」 「船頭の家に泊まったらいい」 リーダーらしきおじさんを指差した。土肥さんとおっしゃって、六十代くらい。 「おばちゃんに夜這いをかけんのなら、泊まっていっても良いよ」 五時に御伺いすることになった。家はオヤシキ様のすぐそばだと教えられた。タコツボをすべて運び終えて、集まりは解散した。次のバスまで時間があったので、歩いて帰ることにした。だが、歩き始めて数分もしないうちに、横に車が停まった。「島の館」の職員の、金子さんだった。ご好意に甘え、乗せてもらう。 道すがら、壱部がまきあみ漁を止めた理由を尋ねた。政府が減船に奨励金を出しているのだが、申請の期限が昨年までだった。いろいろ考えた結果、不漁も続いていたので、やめてしまうことにしたそうだ。 博物館では中園先生が接客していた。僕は喫茶店に入る。午後の陽射しがブラインド越しに差し込んでいた。一時間ほどして、訪問客が帰った。漁師さんの家に泊めてもらうことになったことを中園先生にお話すると、「ほーう」と面白がってくれた。 壱部までバスで行こうかとも思ったが、あまりにも荷物が多いため、また車で送ってもらってしまった。背の高いお兄さんが言うことには、 「びっくりするものをお見せしますよ。京都には、無いんじゃないかな」 見せてくれたのは、壱部集落の路地の狭さであった。軽自動車でぎりぎり通れるような狭い道。数センチもズレたら、車体が傷つくだろう。たしかに京都では見たことがない。あまりにも大変そうに見えたので、途中で降ろしてもらった。 土肥さんの家はすぐに見つかった。玄関で声をかけると、先ほどのおばちゃんが出てきた。 「昨日は二十人も来ていたんだよ。娘の知り合いと。その子供たちでね」 普段から来客は多いらしい。おばちゃんは社交的な人に思われた。女の子たちは孫と姪だそうだ。風呂を使わせてもらった。夕食は焼肉に加え、刺身、蛸、それからアラの入ったみそ汁だった。 土肥さんは日本酒を片手に上機嫌であった。 このあたりではイカ釣りが盛んなので、タコはあまり食べないそうだ。だが、とてもおいしかった。 おばさんが言う。 「オヤシキ様の公園はね、私たちが子供の頃は鬱蒼とした森で。祟りがあるって言って、大人は近付かなかった。だけど子供には不思議と祟りが無くてね。みんなよく遊んでいたよ。ままごとしたりしてね」 日当たりの良い現在の公園からは想像もできない。土肥さんご夫婦は家がすぐ向かいであって、小さい頃から一緒に遊んでいたらしい。 やがて、僕が生月に来た目的を説明した。 「カクレキリシタンに興味があって生月まで来たんです」 「そーですか。少ないでっしゃろ」 「多いというほどでもないみたいですね」 「我が家も昔はそこの神棚に、御前様ば祭っとりましたがね。父親の代でやめてしまいましたが」 土肥家も昔はキリシタンだったのか。だが、ご神体を納戸の奥ではなくて神棚に飾るのはどうしたことだろう。堂々としすぎではないか。納戸じゃないんですか、と訊ねると、 「昔からのキリシタンの人は納戸の奥に飾るけどね。うちは四代前に生月に来ましたから。違うんです」 出自は甲斐の武田氏らしい。島外からやってきた人が、たとえ一時的にせよキリシタンの信仰を受け入れたというのが不思議に感じられた。 「やはりそれは、郷に入れば郷に従え、ということでしょうな」真面目な顔で説明してくれた。 土着の神を祭るような発想かも知れない。キリスト教が土着信仰と交じり合うのではなくて、キリスト教の方が土着信仰になっているのだ。これは新鮮だった。だが、土肥さんの先祖は御前様を祭ることが幕府によって禁じられている信仰だということを、認識していたのだろうか。ひょっとして、そんな意識がまったく無かった可能性もありうる、思った。 土肥家にとって、キリシタンの神様はたくさんの神様の中のひとつに過ぎなかったのだろう。行事もそれほど熱心にやっていなかったかも知れない。だからこそ、コミュニティのつながりが弱まるとともに、キリシタンの神様を祭るのをやめてしまったわけだ。 「昔はいろんな神様を祭ってましたけどね。今は弘法さんだけが残ってます」言いながら、仏壇を指差した。まん中に、お経を手にしたお坊さんの像が置かれている。 「海沿いは、よそから来た人が多いんですかね」 「鯨組といって、あちこちから来てましてね」 これは中園先生から聞いた話と繋がる。技術を持った人間があちこちから集まっていたのだ。海岸沿いの舘浦はキリシタンではないが、内陸の山田はキリシタンであること、そして言葉が違うことも、これで説明がつく。 「海側は鯨がとれるから、豊かでしてん。山の農業は、お米もそれほど採れませんでしょ。貧しいほど、信仰心は強くなりますから」 さらに、「キリシタンの人らは身内でしか結婚しないから。知的障害者も多い」とも言っていた。たとえ事実であるにしても、あまり良い印象を持っているのではなさそうだ。 「だいたい、宗教を熱心にやっている人というのは、陰でずるいことをしていますな」土肥さんはそう言って、乾いた声で笑った。「カトリックとキリシタンというのは、同じ宗教の中の別の宗派でしょう?。それがどうして争うのか、私たちには分かりませんのです。うちら、浄土宗と日蓮宗でも、別に争わないですよ」 中園先生はカトリックとカクレキリシタンの間に確執は無いと言っていたが、その言葉を鵜呑みに出来なくなってきた。それとも土肥さんが誤解しているだけなのだろうか。 「あと、カッツという人たちもいましてね」 その人たちについては、ガイドブックにも載っていた。キリシタンを取り締まるために平戸から送り込まれた人々の子孫らしい。 「葬式や初盆の時、生臭いものを食べないんです」 「厳格な仏教徒といったところですかね」 「ええ。でも、カッツというのは、あまり良い意味では使いませんな。『あいつはカッツだから』みたいに使います」 カクレとカトリックに加え、カッツまで出てきて、島はまるでモザイク模様だ。 「こう言っちゃ失礼かも知れないですけど。ユーゴスラビアみたいですね、ここは」 土肥さんは笑ってくれた。 「そうですな。カクレキリシタンと、カトリックと、カッツと、それから私らみたいな一般のもんと」 四つの信仰が狭い島の中に共存しているのだ。
食事の後、子供たちにせがまれてオヤシキ様の公園に行った。ぐるぐるまわる乗り物をものすごい勢いで動かすので、見ていてハラハラした。一時間ほど遊んだ。近所のおばちゃんが呼びに来た。 「そこは遅くまで遊んだら、怖いことがあるよ」 「まだ暗くないから、大丈夫!」 駄々をこねていたが、やがておばちゃんに連れられて家に帰った。かなり遅くまで、土肥さんご夫婦とお話をした。現在の長崎県知事は生月の出身だそうだ。まきあみ船団の船主だという。減船奨励金は船主だけが得するように出来ているという。土肥さんは昔、組合活動を熱心に行ない、船主と対立していたそうだ。漁船の乗員は給料のほとんどを渡航先で使ってしまうので、妻や子供が苦労する。だから子供は絶対に漁師にさせないと決意している母親が多く、後継者難だという。 十二時頃に寝床に入った。 目を覚ますと、六時をまわっていた。飛び起きて下の階に下りたが、おじちゃんもおばちゃんも、ぐうぐう寝ている。寝坊かしらんと思ってうろうろしていると、おばちゃんがむくりと起き上がって、 「風が出てるから、今日は船を出せんかも知れん。よく寝とき」 結局、その日のタコツボの引き上げ漁は中止になった。 正午、僕は生月を後にした。
℃ 2002 Taro Tezuka (2002・8・1記) |
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