【体験報告】
アイソレーションタンクで瞑想体験

アイソレーションタンクという装置については、友人から借りたマンガで知った。人間がひとりだけ入れる大きさの水槽の中を真っ暗にし、音も聞こえないようにする。比重の大きな液体で満たされ、ぽっかり浮かぶことが出来る。五感の感覚を遮断することによって、身体感覚に変化が現れたり、時には幽体離脱を経験することもあるという。この奇妙な装置を考え出したのはジョン・C・リリーという独創的な神経生理学者で、1950年代に意識の深淵を探る目的で開発したそうだ。

理論的なことはよく分からないが、五感をすべて遮断してしまったら面白いことが起きそうではないか。体験できる場所をインターネットで調べてみたところ、「フローティングカプセル」という名前で東京のスポーツクラブに置いてあったことを知る。連絡してみたのだが、既に閉鎖した後だった。それでもあきらめずに探し続けたところ、今度はアイソレーションタンクに関連する掲示板を発見。京都でも体験できるという書き込みを読み、メールを出した。すぐに返事が届く。

京都在住のフランス人で、ディヴィヤムさんという方が、個人で所有しておられるとのこと。友人たちに貸していて、ビジネスとしては成り立っていないそうだが、維持費として一回三千円を受け取っているという。遊園地に行くことを思えばそれほど高い値段ではないと僕は考えた。

さっそくディヴィヤムさんに電話をかけてみる。年配の男性という雰囲気。落ち着いていて、親しみの持てる話し方をする人だ。二日後にタンクを体験させてもらう約束をした。
「どんな用意をしていったらいいですか?」
「タオルを持ってくること」
「わかりました。時間はどれくらい掛かりますか」
「君次第だよ」
アバウトな決め方に驚く。

約束していた日は、雨模様だった。今出川から神楽岡通りを少し入った所でディヴィヤムさんを待つ。六月の雨のむこうに大文字山がくっきりと見える。横の路地は下り坂になっていて、その先は白川だ。大きく広げた手のような白濁色の雲が東山を包み込んでいた。京都でも有数の素晴らしい環境だ。

だが、定刻になってもディヴィヤムさんは現れない。電話してみると、陽気な声が返ってくる。「真如堂の前って、言わなかったかな?」。僕が間違えたのかディヴィヤムさんが間違えたのか、とにかく僕はそこからさらに南へ、淡い霧のような雨の中を真如堂前まで向かう。

道の向こうから大柄な外国人の男性が姿を現した。Tシャツに短パンという軽装。ひょうたんのような体型をしていて、バーベキューやキャンピングカーが好きそうなアウトドア系のおじさん、という印象であった。
「やあ、はじめまして」
手を差し出してくる。ぎゅっと強く握り締める、外人風の握手。少し歩き、神社の鳥居を過ぎたところで立ち止まって、
「我が家はここなんだけどね」
塀の立派な日本家屋だった。
「築150年だよ。真如堂を警護するSAMURAIが使っていた家なんだ」
いったいどうやってこんな家を見つけたのだろう。いいセンスしている。趣のある前庭では灌木が雨に濡れていた。

母屋に入るなり、ディヴィヤムさんが左斜め前方を指差した。
「これがタンク」
タンクは、いきなり、そこにあった。丸い燃料タンクのような装置を想像していのだが、実際は角張っていて、外装は白く、金属製。巨大な洗濯機を思わせる。違いはその大きさであり、通常の洗濯機なら四台ほど入りそうだ。けれど高さは低く、腰までしかない。
「キッチンにぴったり収まったのには驚いたね」
キッチンというのはつまり台所のことであって、言われてはじめて気付いたのだが、この場所は土間なのだ。天井が高く、開放感がある。
「こちらが裏側で……。表はこっち」
畳敷きの居間を渡って反対側にまわる。裏側とほとんど違いのない表側。45度の角度で傾斜していて、扉がついている。こちら側から見ると、料理に使うオーブンのようでもある。この装置に閉じ込められるのか。少しだけ不安になった。まだ、フランスから来たアイソレーションタンク愛好家氏を完全に信用できていないようだ。

ディヴィヤムさんがおもむろにタンクの扉を開けた。妙に軽くて、薄っぺらい扉だ。鍵もない。叩いたら、破ることさえ出来そうである。少し安心する。扉の上に漬物石でも置かれない限り、閉じ込められることは無さそうだ。

タンクの中は不健康そうな青い液体で満たされている。だがよく見ると、液体の色ではなく、内装が青いだけだった。水の深さは20センチほどだろうか。ディヴィヤムさんが説明を始める。
「水温は93.5度。ちょうど人間の体温と同じ。摂氏で言うと、35度かな」
それ、少し低い。ちょうどじゃないぞ。摂氏を使い慣れていないから、だいたいの数値を言ったのだろうか。

「手順を説明するよ。まず、トイレに行く。シャワーを浴びる。タンクに入る。以上」
「なるほど。ずいぶん簡単な手順ですね」何か大切な事項を聞き漏らしている気がしてならない。「質問なんですけど、どれくらいの時間、入っているべきものなんでしょうか」
「通常は、一時間がひとつの単位。一時間経ったところで、残りたいか、出たいかを決めればいい」
アバウトである。
「今日は、君の他に体験したい人がいないからね。ゆっくりしていっていいよ。いちおう、一時間後にベルを鳴らすけど」
いつの間にかディヴィヤムさんの両手に、お寺で使う小さな鐘が握られている。叩き合わせると、ちーん、と、乾いた音が響いた。
「君の予定はどうなっているの?」
あまり長居するわけにも行かないと思い、六時までいられる、と答えておいた。

三時を少し過ぎたばかりだった。ディヴィヤムさんは時計を見て、
「そうしたら、四時半と五時半にベルを鳴らすからね。最初のベルは、一回だけ。君はその時、“行ってしまっている”かも知れないし、一回以上は鳴らさない。けれど、五時半のベルは、君が返事をするまで繰り返す。ベルを聞いたら、水をバシャバシャ鳴らして欲しい。そうしたら私はそれ以上、ベルを鳴らさないで済む」
タンクの壁を隔てたコミュニケーションの技術がしっかりと確立されているようだ。いつもこの調子で実験しているのだろうか。

「それから、タンクを出た後で、何も言わずにシャワーに行くといい。しばらく“コクーン(繭)”の中に入っているのは、心地よいものだからね」
コクーンというのはかっこいい表現だ。精神的な繭。ココロに薄い膜がかかった状態を想像する。
「そのまま廊下をゆっくり歩いてシャワーまで行くといい。私は話し掛けないでおく。ここで」居間の奥、廊下が見える位置に座って、「君のことを写真に撮ってあげよう」
こう書くと何だかいやらしい感じがするが、そういう趣味の人という訳ではなくて、単にいろんな人のアイソレーションタンク体験を記録に残したいだけのようだ。

「タンクに入っている間、寝返りを打たないようにね」
「そうですね」
普通に答えてしまったが、少しだけ間があって、
「今の、ジョークなんだけど」
「え?」
「ほら、ベッドと違って、寝返りは打てないだろう?。顔が濡れるし」
「……濡れますね」
フランス人の笑いのセンスは難しい。エスプリというやつか。

「それから、目には手で触らない方がいいよ。塩水だからね」
ゴーグルを付けて入るというのは、たぶん反則なのだろう。
ディヴィヤムさん、首のあたりを叩きながら、
「最後まで緊張感が残るのが、首なんだ。こうやって首をリラックスさせるといい」後頭部を下げ、顎を突き出す。「そうしないと、肩から首にかけて、恐怖感が蓄積されてしまう。頭が水に沈んでしまうんじゃないか、ってね」
注意事項が続く。
「タンクに入る前に、水を飲まない方がいいよ。飲むと、お手洗いに行きたくなる。なるたけ長く入っていたいだろう?」
まだ入っていないので、ずっとタンクの中にいたいかどうかは分からない。

説明を聞いているうちに、ディヴィヤムさんのアイソレーションタンクに対する思い入れの強さが伝わってくる。金持ちの道楽でやっているわけでは無さそうだ。なにしろタンクは台所の半分以上を占領している。タンクを見ずに済む日は無いわけだ。

ディヴィヤムさんの仕事は、翻訳家だという。たが、日英でも日仏でもない。なぜか英語とフランス語の間の翻訳である。なぜ日本にいるのか。たぶん、日本が好きだからであろう。それ以上の理由はなさそうだ。実際、ディヴィヤムさんは日本に暮らして二十年以上も経つにも関わらず、日本語をほとんど話さない。初めて電話した時も、「もしもし、ディヴィヤムです」と言った後で、いきなり「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」、有無を言わせず切り替わったくらいである。

つまり、日本人と話をしたり、ビジネスをするために日本に来ているのではない。目的はおそらく、言葉では表現できない日本文化に触れることなのだろう。たとえば茶道や武士道については、僕よりもずっとくわしかったりするはずだ。実際、この家、そしてこの近所は、水墨画を思わせるような、見事に完成された環境である。静か過ぎて、座禅を組みたくなる。タンクがこの場所にあるのは単なる偶然などではなく、深い熟慮の結果であるようにも思えてきた。

築150年というディヴィヤム邸の裏にはマンションが建っていたりしたが、なぜかそこからも物音ひとつしない。雨のせいだと気が付いた。雨が街にカーテンを降ろしているのだ。

別にタンクに入らなくても、心が安らぐような気もする。だが、本来の趣旨を忘れてはならない。僕がここに来た目的は、自己探求。自分の身体を知ること。いつのまにか、周囲の雰囲気に流されて、タンクの目的がすりかわっている。環境とは恐ろしいものだ。あるいは、大切なものだ、と言い直すべきか。禅の高僧は、市井にあってタンクを超える境地に到達できるのだろう。だが、僕は禅の高僧ではない。自己探求のために、タンクを必要とする。

気を取り直して、準備に取り掛かる。中庭のむこうにシャワーとお手洗い。昔ながらの日本家屋である。“大”のお手洗いなど、膝の高さの所に窓が開けられ、竹格子には蔓が巻きつき、まるで茶室みたいだ。

ディヴィヤムさんは尿意のせいでタンク体験が中断されることを心配していた。加えて、空腹感も厄介なものだ。そこで、その時たまたまカバンに入れてあった新製品のお菓子、「胡桃ロースト」を口にしておいた。うまい。なかなかいける。だが、口の中に残る胡桃ローストの味もまた感覚のひとつ。これも消去しておかなければならない。台所で歯をみがいた。水道管が古いのか、金属臭のする水だった。

準備ができたところで、タンクの扉を開ける。ディヴィヤムさんは居間でパソコンに向かったままだ。余計な干渉をしないつもりなのだろう。水面から立ち昇る湯気を顔で感じる。おそるおそる、足を塩水の中に突っ込んだ。温度は適温だった。冷たくもないし、熱くもない。深さはわずか20センチ。背や尻が底に触れたりしないのだろうか? 足が底につく。ヌルヌルしているが、細かい結晶が沈殿しているため、足の裏をくすぐる。ヌルヌルで、ザラザラ。そして、小学校のプールを思わせる、人工的な青。この不気味な色あいも、扉を閉じた瞬間に、消え去るのだ。少なくとも、僕にとっては存在しなくなる。
「目にさわらないよう、気をつけてね」
扉を閉める直前、ディヴィヤムさんが廊下に顔を出して、言った。タンク世界への手向けの言葉にしては、妙に現実的だったので、印象に残った。

僕は完全な暗闇の中、そろり、そろりと、体を倒す。背中が水の中に浸かった。そして、浮く! それが最初の感想だった。20センチの深さでも十分すぎるほどに、体がしっかりと浮くのだ。

飽和食塩水だから、浮くのは当たり前だ。事実としては分かっていても、体験すると面白い。そういえば昔、発酵食品を作って楽しむサークルを作った友人が、同じことを言っていた。発酵するということは、本を読めば書いてある。だけど実際に自分の手で行なってみると、本で読むのとは全然違う面白さがある。

体を倒した時の勢いで、頭がタンクのむこう側の壁にぶつかった。反動で、体が今度は足の方向に進む。愉快だ。まるで無重力。

同時に、全身を襲う擦り傷の痛み。これには理由がある。二日前、鴨川で水遊びをしたため、体中が傷だらけなのだ。塩水に入ったら、まさに因幡の白ウサギ状態。じっと我慢しているが、

そしてもう一つの問題として、おなかが何故か水の外に出てしまう。塩水の中は暖かいが、外気はそこまで暖かくない。だから、おなかの辺りで冷たさを感じてしまう。その感覚が、消えない。おなかで確かに外界の存在を感じてしまう。なかなか消えてくれない、腹を取り巻く円形の皮膚感覚。

まるで踏んだり蹴ったりの状態であったように書いてしまったが、それなりに楽しんでもいた。擦り傷の痛みは、やがて消えてくれるのではないかという期待があった。

それよりも重要な問題は、体を静止させることだと気付く。体が知らぬうちに移動を始めていて、やがて壁にぶつかる。押して返して離れようとすると、今度は反対側にぶつかってしまうのだ。行ったり来たりがおさまるまで、かなり苦労した。

暗い。緊張のせいか、つい、首に力が入ってしまう。ディヴィヤムさんの言う通りだった。首で全身を支えている気持ち。でも、力を抜いても大丈夫だ。顔だけぽっかり、水の上に突き出す。実にうまく出来ている。人間の目や鼻が顔の前面に集まっているのは、このためではないかとすら思えてくる。ひょっとして我々の先祖はこうやって、水棲動物として波間に漂っていたのではなかろうか。けれど、耳だけどっぷり水の中だ。おかげでタンクの外の音は聞こえない。雨の効果に期待する必要もなかったかも知れない。

しばらくじっとしていると、暗闇に明暗の変化が感じられる。ほのかに明るくなり、赤っぽい黒になったかと思うと、ふたたび漆黒に落ちていく。タンクに備え付けられた演出ではない。視覚における感覚遮断の影響が、さっそく現れている のだ。

大都市の郊外に育った僕は、真っ暗闇というものを体験したことが少ない。ある時、深夜の大文字山に登った。真っ暗で、それでも構わず歩いていると、赤や緑の粒子が砂嵐のように渦巻いて見えた。

感覚遮断は感覚を作り出す。珍しいことではないのだが、タンクの中で、体が水の中に浮かんでいることの不安感と合わさると、なかなかの効果を醸し出す。

あいにく、何かのきっかけで目に塩が入ってしまったらしく、ものすごく痛い。仕方ないのでいったんタンクを出て、洗ってくることにした。
「どうだい?」
居間の反対側からディヴィヤムさんがすかさず尋ねた。
「明るくなったり、暗くなったりして。なかなか変わっていますね」
それでいい、と言いたげな顔で頷いて、
「何が起きたとしても、それを見つめることだ」
意識を集中させろ、といったところか。台所の流しで目を洗う。肌に触れると、表面に塩の結晶が付着しまくっていた。

念のため、尋ねておく。
「あの液体に入っているのは、全部、塩ですか?」
「塩……。正確には塩化ナトリウムだ」
「それって、塩じゃないですか」
「精製塩だよ」
「なるほど」
そういうところは細かい。

ふたたびタンクの中に入った。

あいかわらず真っ暗だが、もはや、明暗の繰り返しは現れない。墨のような闇が広がっている。目を開けても、閉じても、何の違いもない。瞼が役割を失い、もはや存在しないかのような気持ちに襲われる。人間は、目を開けたまま眠ることは出来るのだろうか。ここでなら、出来るような気がした。

体は今、タンクのどのあたりにいるのだろうか。そんなことが気になり始める。幅が1メートル、高さが2メートルしかないのだから、「どこ」に行ったとしても、数十センチの範囲内の話なのだが……。

平衡感覚が暴走したのか、体が回転を始めた。まわっている。反時計まわり。まわっているわけがないのだが、確かにそう感じる。ということは、まわっているのだ。視覚や身体運動が失われた時の、三半規管だけによる平衡感覚の頼りなさ。光ひとつ見えない闇の中なのに、なぜか回転していることが分かる。北極星を中心に置いた星空のように、仮想の光の粒子が円を描く。

ゆっくりと停止して、今度は固められたゼリーの中にいる。流されることはないし、壁に触れてしまうこともない。無理に体を静止させようとしなくても、動いたりしない。体の力が抜けるにつれ、筋肉の緊張感が左右非対称であることに気付く。急に自分の体が、粘土の塊であるような気がしてきた。初めは頭。両側から力を加えたら、潰れてしまいそうだ。その感覚が、体中に広がっていく。そして腰から先が、伸びる、伸びる。下半身だけ、水の流れに乗ってどこかに行ってしまう。その先は、滝だ。

やがて体が、垂直に立っていく。縦の回転。遊園地の乗り物にこんなのがあったかも知れない。さらに、体を望む方向に向けられることに気付く。自分はこの角度を向いている、と、想像したら、その通りに感じられるのだ。体を自由に制御できる……。体の制御を取り戻す?。それはちょうど、遊園地にあるコーヒーカップのように、初めは自分の手で力を加えるのだが、その後は慣性によって、僕の意志を離れて動き続ける。面白くもあり、不気味でもあった。

そうやって、ずっと寝転んでいた。タンクとはまったく関係のないことを考えていた時もあった。なぜか、「難しいことは考えられない」という自己暗示に陥りそうになったこともあった。

かすかなベルの音が聞こえた気がした。やがて、はっきりとベルの音を聞いた。水を叩かなくてはならない。だが、体を動かし、いつもの自分に返ってしまうのがもったいない気がして……低血圧の僕は、毎朝必ず布団の中で数分間、じっとしているが、ちょうどそれと同じような状態で……なかなか起き上がれない。そしてそれを楽しんでもいた。もう少し、横になっていたい。

ディヴィヤムさんの声が聞こえる。水を鳴らさなかったせいだろうか、「大丈夫か?」みたいなことを言っている。僕は大丈夫である。意識はしっかりしている。「大丈夫です」と答えておく。先ほどの「何も言わない方がいい」というアドバイスは、どこかへ行ってしまった。

タンクを出ると、お香の匂いが漂っていた。中庭に、雨。さっきよりも、強くなっている。シャワーを浴び、念入りに髪を洗った。

畳を敷きつめた、和式の居間。低いテーブルを挟んでディヴィヤムさんと向かい合う。外国人の家にいる気がしない。タンクの中で体の回転を感じたことを言う と、
「そう、自分の体を、念じた通りの方向に向けることが出来るんだ。まるで宇宙の中にいるようにね」
嬉しそうに説明する。
「リリー博士の説によると、人間は自らのエネルギーの80パーセントを重力に抗うことに使っているそうだ。そこから自由になることが出来れば、本当に大きな力を手にすることが出来る。けれど、急に解放されたエネルギーを制御することが難しいんだ」
アイソレーションタンクを考案したリリー博士は晩年、イルカの研究に情熱を傾けたそうだ。今の話と繋がっていそうだ。重力によるエネルギーの無駄がないから、イルカは賢い。水中では五倍の能力を発揮できる。

ディヴィヤムさんは続ける。
「私の妻は日本人なんだが……。その母親を、この前、タンクに入れたんだよ。85才でね……」
眉ひとつ動かさずに言った。冗談だと思いたい。85才のお婆ちゃんが、真っ暗なアイソレーションタンクに……。
「義母は体が完全に曲がってしまっていてね。ひとりでは入ることが出来なかった。だから、私が一緒に入ったんだ」
その光景が鮮やかに目に浮かんでしまった。
「義母はタンクから出てきた後で、『別の世界にいました』と言っていたよ」
『別の世界』を神秘体験と捉えるべきか、あるいは単に、強烈な体験だったと捉えるべきか、どちらか分からなかったため、僕は黙っていた。

だが実際、お婆ちゃんの方がむしろ神秘体験にはふさしいのかも知れない。老人とは素直なものだ。“子供に返る”と表現されることもある。そして素直な心にこそ、神秘的な体験が訪れるのではないだろうか。

曲がってしまったお婆ちゃんも、僕と同じように、体がまっすぐに伸びていくのを感じたのだろうか。それにしても85才にもなる実の母親をタンクに入れてしまったディヴィヤムさんの奥さんの行動は、ディヴィヤムさんを愛していたゆえなのか、あるいはタンクを愛していたゆえなのか。それが気になった。

僕は体が伸びて感じられた体験を説明する。
「ストレッチしていたとかではなく、本当に体が伸びていくんです」
「ありうるね」
「それから、身体の非対称性というのも感じました。右側の筋肉ばかりが疲れているのを感じるとか、体が折れ曲がりそうになるとか」
うんうんと、ディヴィヤムさんが頷く。
「人間は、外側は対照的だけど、内側はそうじゃないからね」深く考える時のように、斜め上の方向に視線を向け、「私の場合も、体が勝手に動いてしまうんだが……。なぜか、壁にぶつかるのが、いつも頭なんだよ。足がぶつかることは、ほとんどない。頭ばかりが動いてしまうんだね。君はどうだった?」
僕はそのように感じなかったが、ディヴィヤムさんの大きな体がタンクの中で、振り子のように振動している様を想像するのは面白かった。

「君は、周囲の音は聞こえなかったかい?」
「聞こえないですね。意識して聞こうと思わなければ、聞こえない」
「それは良かった。家の前の道を車が通ったりするとね、振動でびくっとしてしまうことがあるんだ」
空気中の音は反射されても、地中を伝わってくる振動は聞こえてしまうのだろう。 「この前、タンクに入っている時、ものすごい大きな音がして、思わずタンクを飛び出したんだが……。ただの夕立だったよ。雷が鳴っていてね。あの時の音には驚いた」
タンクのせいで感覚が鋭くなる、という変化はおおいに考えられる。実際、体が流れていく感覚も、実際の移動が誇張されて感じられた結果ととれないこともない。

結局、僕にとってアイソレーションタンクは神秘体験ではなかったのだ。もちろん、「今のところ」という限定付きではある。さらなるタンク体験によって、異なる印象を抱くようになるかも知れない。底まで20センチしかないと思っていたタンクが、実は予想以上に深く、そのままずるずると引き込まれてしまわないとも限らない。

けれど神秘体験を求めるまでもなく、自分の身体を知るための一手段としてタンクは充分に興味深かった。そしてディヴィヤムさんという人物もかなり個性的だった。 この文章も、アイソレーションタンクについて書いたのかディヴィヤムさんについて書いたのかよく分からない。いわば、タンクに惚れ込んだひとりの人間に会いに行った体験記である。

そのディヴィヤムさんが時計を見ながら言う。
「もう六時十五分だ。悪かったね。私は五時半にベルを鳴らしたんだが」
僕はディヴィヤムさんのアバウトさを愛す。お礼を言って、本格的に降り出した雨の中を帰ったのであった。

※注:その後、タンクが壊れてしまい、今はもう利用できないそうです。(2010年4月16日記) ℃ Taro Tezuka (2002.6.29)

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