ヘーゲル「精神現象学」序論・雑感

哲学研究会というサークルがある。冗談で付けた名前かと思いきや、本当に哲学書を読んでいる。参加者は6名ほど。僕も参加して、ヘーゲルの「精神現象学」序論を読んできた。

前半は比較的分かりやすい。哲学はどうあるべきかが論じられ、啓示的な哲学が批判されている。対置されるのは、「概念・整序・単純化・概念上の区別・思考の秩序」VS「感情・宗教心・法悦・霊感・行き当たりばったりの内容・自分勝手な思いこみ」(9段・12段)である。「概念」は現代人が使うconceptという意味ではなく、むしろ conception 、「思考すること」という意味だろう。しかも単なる「想起」という意味でのconceptionではなく、合理的な思考である。その構成要素としては、「混沌たる意識を整序して概念的に単純化された思考の秩序」「概念上の区別」(9段)という表現に現れているように、「整序」や「単純化」、「区別」を考えていたことが分かる。

ヘーゲルにおいて、哲学の価値は諸学を体系化することにある。原則や原理だけの哲学は誤っている(28段)。そのため、序文に目的と結論だけ書いても意味がないと主張される。「結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなす」(3段)。各論無しの哲学には価値がない。

ヘーゲルは「概念」によって諸々の学問を体系化することを目指した。これは現代の学問でも同じだと思われる。たとえ現代の数学は集合論の上に展開され、その他の学問は数学によって秩序立てられる。すなわち「整序」される。その意味でヘーゲルは集合論の使用という「概念」を(文章の曖昧さゆえに)予言していたと言えないこともない。(あいにくヘーゲル自身の一般論である「弁証法」が残ったのではなかった)。しかし集合論とて最終到達点かどうかは分からない。いつの日か集合論に代わる諸学の基礎が現れる可能性が無いとは言い切れない。

ヘーゲル哲学は学問論として読むのが良いのかも知れない。たとえば、「相手を否定することだけに気をとられるという反駁の悪弊を脱し、その進行と結論の積極面をも意識するのでなければならない」は良いアドバイスだと思う。また、「はじまったばかりの学問は、細部まで仕上げられてもいなければ、完全な形式を獲得してもいないから、そのことが非難の種となる」「一方の側は材料のゆたかさとわかりやすさを自慢し、他方の側はそのわかりやすさを軽蔑した上で、理性と神性がそのままあらわれるのを自慢する」(16段)という部分は、たとえばコペルニクスの地動説よりもプトレマイオスの天動説の方が当初は天体の運動の予測精度で勝っていたという歴史的事実を思い起こさせる。現代の科学論でも扱われそうな話題だ。

さて、20段以降が非常に分かりづらい。ヘーゲル自身の「一般論」が紹介される部分である。分かりにくい理由のひとつは、類義語の間で頻繁に言い換えが行われることであろう。そこで、簡単に整理してみた。三つの大きなグループがある。カッコ内は具体例(インスタンス)である。

1.本質 (絶対・神・主語・胎児)
2.運動・展開・発展・生成・反省・理性?・真理?
3.全体・和解・結果・再建された統一・真理? (現実の存在としての神・命題・自由を自覚した人間)

グループ内でも微妙に意味の違いがあるのかも知れないが、まだそれが分かるほどには読み進めていない。1はいわゆる「テーゼ」のことであろう。2は弁証法の運動である。3は「シンテーゼ」を指していると思われる。著者が最初から類義語リストを作ってくれたら分かりやすいと思うのだが。

神について論じられた26段は特にに分かりにくかったが、おそらくこういう意味だと解釈した。「あなたが神について語る時、すでに神は絶対的な本質にとどまっていない。なぜなら「神」という主語に述部を付けたことによって、運動が始まっているから」

僕は黒板に、弁証法の運動の図として、小さな正三角形が大きな正三角形の左下内側に位置し、それがさらに大きな三角形の左下に位置し、という入れ子構造の図を描いた。また、二つの楕円が両方向の矢印で結び付き、全体が大きな楕円に包まれている図も描いた。

そして自分の読解を教壇の前に立って説明した。いくつか質問が出た。

Q「『理性』(23段)ってのはどういう意味ですか?」
A「理性が運動自体を表しているのか、あるいはその前提となる条件、それとも運動を引き起こす力を指しているのかは、まだはっきり分かりません。もう少し読む必要があります」

Q「『単純なものへと還っていく』(24段)ってのは、どういう意味ですか?」
A「統一されたものは、単純ですよね。対立が無いという意味だと思います」

これは我ながら苦しい説明だった。

Q「『外へ出て還ってくる』(23段)というのはどういう意味ですか?」
A「『分裂−統一』(21段)、『対立−和解』(24段)、『外に出る−戻ってくる(自分に還る)』(21段・23段・25段)など、様々な表現が使われているので、ひとつの図で表せないんです。ヘーゲルがどんな図を考えていたのか分かりません」

参加者の一人が前に出てきて言った。
「僕はこんな図を考えてたんですけど」
黒板に図を描いた。楕円から外に突き出た矢印が、くるりと方向を変えて楕円自身を指している。僕はその図をさらに大きな楕円で包み、そこからくるりと回転して自分自身を指す矢印を描いた。その全体をさらに楕円で包み…というのを繰り返して、図を大きくしていった。
「ようするに、ぐるぐる同じところをまわっているわけじゃないってことですよね」と別の参加者が口を挟む。
「そうです。直進でもなく回転でもない。けれど、図で表すことにはあまり意味がないのかも知れない。実際、僕が図を描いたからといって、皆さんが理解できたとは限らないですよね。序章の最初の部分で言われているように、一般論は多くの各論に使用できることが大切なのであって、図で表現できることが大切という訳ではないのです」

極端な話、図は弁証法という運動に対するひとつのインスタンスに過ぎないとも言える。

最低限言えることは、ヘーゲルは進歩を一次元ではなく二次元または多次元で捉え、ディテールを付け加えたという点である。

Q「『現実の存在がその概念と合致するのは…』(25段)における『概念』はどういう意味ですか?」
A「『合理的に思考すること』という意味ではないように思います。ただ、この意味ではまだ一度しか使われていないので、何とも言えません」

こちらはconceptという意味で使われているような気もする。すなわち、想起対象である。この段はアリストテレスの世界観が色濃く現れている。実際、目的論的世界観はヘーゲルのオリジナルではなく、アリストテレスと共通する。その上に「テーゼ・アンチテーゼ・シンテーゼ」という構造を付け加えたのがヘーゲルのオリジナル部分だ。

Q「『愛が自己自身とたわむれること』(22段)の意味は?」
A「『たわむれる』という言葉には、軽々しい響きがあります。結論だけ見れば愛が自己自身とたわむれているわけだけど、その途中で対立がある。そこには『真剣さ』『苦痛』『忍耐』『負の働き』(22段)がある。その後で初めて『和解』が行われる。『たわむれる』という表現は対立の存在を無視しがちので、よくない」

Q「『絶対的に自分の外へ出ていきながら純粋に自己を認識する』(30段)は?」
A「自己認識は弁証法的発展そのものではなく、その一例(インスタンス)と捉えた方が良いのかも知れません」

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ヘーゲルやアリストテレスの目的論的世界観は、決定論と目的概念拡張という二つの部分に分けられる。決定論に関しては物理学とそれほど違ったことを言っていないと思う。

「目的として最初にあるものが結果として出てくる現実存在を可能性としてふくむからである」(25段)。(山本訳「目的として直接的なものが、自己あるいは純粋な現実性をそれ自身のなかにもっているからにほかならない」)。

これは物理学では以下の形で言い表されよう。

未来の状態は「現在」という時刻には「存在しない」が、方程式の解としては「ある」。また、現在の状態は未来の状態を(一定の不確定性の範囲内で)決定する。

目的概念に関しては、目的論的世界観と物理学の間で大きな違いがある。物理学は意志や欲求を一般的に拡張した「目的」という言葉を扱わない。マルクスがヘーゲルを批判したのは、まさにこの「目的」概念の不当な拡張に対してである。マルクスは社会変化を機械論的に説明しようと試みた。その点に関しては自然科学と軌を一にする。

もうひとつ。物理学ではメタファーを(理解を助ける目的以外では)使わない。メタファーが好ましくないのは、つながりが弱すぎるためである。ヘーゲルは「決定する」を「ふくむ」(山本訳「中にもっている」)という空間メタファーで表現しようとするので、分かりにくくなる。実際、ヘーゲル哲学は「外へ出ていく」「自己に還る」など、空間メタファーのオンパレードである。

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ヘーゲル哲学は学問論として読めば興味深い。だが、人生のすべてが学問というわけではない。だからこそ実存主義による批判が出てきたのだろう。しかし実存主義で体系的な学問が打ち立てられるとは思えない。

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「自己を認識する」(30段)ということが、ヘーゲルの時代の人にとってはものすごいことだと感じられたのだと思う。今でも同じかも知れないが。

℃ Taro Tezuka (2003.6.14)
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