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ダニエル・デネット「解明される意識」感想
ダニエル・デネットの「解明される意識(Consciousness Explained) この本はなかなか興味深かったので、感想を書いてみます。 人間の意識、つまり自意識や主観といったものを説明しようとする本です。 まず、意識というものはひとつのまとまりではなく、いくつもの流れに分割できるのではないかという主張がなされます。 脳の中では様々な意識の流れ(何かに向けられた注意、と言った方がいいのかも知れない)が競い合っている。それぞれが異なる方向に向けられ、異なることを考えている。多数の注意が同時に存在している中で、生き残って記憶に残る注意もあれば、消え去っていく注意もある。これらの注意が互いに自分を主張し合い、混沌の状態(pandemonium)にあるのが人間の意識である、というモデルです。このあたりはミンスキーのマルチエージェントによる「心の社会」を思わせます。 デネットは自分の考え方を多重草稿モデル(Multiple Draft Model)と呼びます。たとえばネット上に文章を公開した場合、人から間違いの指摘を受けて書き換えることがあります。この時、自分のサイトには最新の文章がアップされているにも関わらず、修正前の文章が他人に引用されて広まっていったりします。修正版はそれを追い掛けるようにして広まっていく。そのように何種類もの草稿が同時に存在し、それぞれが並行して使われているのが脳内の情報処理の過程ではないか、という考え方です。 これに対し、脳のどこかに意識の存在する場所があり、そこに到達した情報のみが主観的に感じられる、という考え方をデネットはデカルト劇場(Cartesian Theater)と呼びます。精神と肉体を分けて考えたデカルトにちなんだ名称です。 では、本当にそんな場所はあるのか。それを認知科学の実験結果に基づいて議論していくのがこの本です。 たとえば カラーファイ現象(color phi phenomenon) という実験があります。白い背景の上で、赤の円と緑の円が左右に数センチの間隔をあけて、交互に点滅しています。点滅の速度を調整していくと、ある速度の時に、円が左右に移動しているように見えます。円が消えて真っ白になることはなく、連続的に動いて見える。色はどうなるかというと、赤の円が中心に向かって動いて行き、ちょうど中間に来た時、緑に切り替わり、残りの道程を動いていくように見えるそうです。(僕は速度調整がうまくできていないためか、まだそのように見えていません……) この結果の不思議な所は、緑の円が動いているという錯覚は、緑の円の出現によって引き起こされるにも関わらず、主観的時間の中で、緑の円の出現に先立って現れるということです。「何度も赤と緑が繰り返しているから、前回の記憶から緑が動いて見えるのではないか」という批判に対しては、色の選択がランダムであっても同じ現象が生じるという結果が出ています。 これを説明するためのひとつの考え方としては、いったん意識された光景(赤の円も緑の円も現れていない真っ白な状態)が、緑の円が現れた後に、緑の円が移動しているという錯覚で上書きされている、という見方があります。これをデネットはオーウェル的改竄(Orwellian revision)と呼びます。オーウェルの「1984」で過去の歴史が改竄されているように、記憶があとから変えられているのだという見方です。 これに対立する見方が、スターリン的改竄(Stalinesque revision)。スターリンが大粛正の頃にでっち上げの裁判を行い、政敵を処刑していったように、現時点で嘘の情報を作り出し、それを歴史にしていくという考え方です。こちらの見方では記憶が書き換えられたりすることはありません。 ところがカラーファイの実験では、赤の円が消えてから緑の円が現れるまでの時間差は200ミリ秒だったそうです。別の実験で、緑の円が現れたらボタンを押すということをしてもらい、反応時間から神経の伝達時間を引くと、200ミリ秒より短くなってしまうのです。つまり、普通に考えると、赤の円も緑の円も現れていない光景は(一瞬であれ)被験者に意識されていなくてはならない。 だとしたら、スターリン的改竄を主張し続けるための唯一の方法は、意識というものはかなり遅れて感じられるものだ、ということになります。つまり、ボタンは無意識のうちに押され、その後で被験者は緑の円の出現を意識している。 どちらが正しいのか。 実際のところ、スターリン的改竄とオーウェル的改竄の違いは「意識された瞬間」をどこに置くかという違いだけです。意識された後で書き換えられるか、意識される前に書き換えらるか。それ以外はまったく同じ。 ここでデネットは、「その区別に意味はあるのか」と問います。 興味深いことに、どちらが正しいかは外部の観察者だけでなく、被験者本人にも判断できません。 デネットは被験者の報告も信頼して意識に関する議論を進めていくアプローチをヘテロ現象学(heterophenomenology)と呼ぶのですが、この区別は科学的に検証不可能であるだけでなく、ヘテロ現象学の手法でも検証不可能です。 まったく区別できない違いであるとしたら、そのようなものを論じることには意味があるのでしょうか。 結局、「意識の在処」や「意識された瞬間」、「情報が脳のその線を越えた瞬間(あるいはこの条件を満たした瞬間)、意識に現れるという場所(a mythical Great Divide)」といったものは議論の対象にならない、というのがデネットの主張です。 直後に現れるリングによって、最初に現れた小さな円が認知されなくなってしまうメタコントラスト・マスキング(metacontrast masking)という実験も、同様の内容を示唆します。 これが前半の中心的な話題。 もしデネットの多重草稿モデルが正しいとしたら、将来的に「意識の統計学」というようなものが出てきたら面白いと思いました。 後半は、意識は並列処理のアーキテクチャ上に実現されたフォン・ノイマン型のバーチャルマシンであるという話や、そもそも意識というものは自分自身に語りかけることから発生した、などという結構オーソドックスな議論、意識というものは重心のように便宜上使用される抽象概念(語りの重心、the Center of Narrative Gravity)である、といった言及もありますが、この本の醍醐味はやはり、認知科学の様々な実験結果の上にモデルを立てていく点にあると思います。 たとえば、いつまでも音が高くなっていくように聞こえる「シェパードのトーン(Shepard's tone)」。別名「床屋の看板的な音(auditory barber pole)」。 聴覚における錯覚とでも言えるもので、興味深いです。 僕が昔から関心を持っている逆さ眼鏡の話もありました。上下や左右を逆転して見せる眼鏡なのですが、ずっと掛けていたら、ある瞬間からそれが正常に見えるようになるらしいのです。視野の上が正しく上に感じられ、下が正しく下に感じられる。 では、色を反転させる眼鏡をずっと掛けていたら、ある時点からそれが自然に感じられるようになるのではないか、という仮説をデネットは提起します。もしそのようなことが起きるとしたら、「赤のクオリア」「緑のクオリア」といったものは本当にあると言えるのか。逆さ眼鏡の発展として面白いです。ヘッドマウントディスプレイを使えば実験できそうです。やってみたい。 本の中で、目の見えない人に視覚の代替物を与える方法として、超低解像度ビデオカメラで撮影した16×16あるいは20×20の画像をその配置で腹部への刺激として与え、トレーニングを続けた結果、人の顔を判別できる程度まで使えるようになった、という話が出てくるのですが、デネットはこれをクオリアに関する議論の導入として使っています。つまり、その人には視覚のクオリアがあると言えるのかどうか。 ここで思ったのですが、色の違いによって皮膚への刺激の種類を変えるようにしたら、さらに興味深いかも知れません。被験者がその皮膚的な色覚に熟練した場合、その人は色のクオリアを持つようになったと言えるのか。結局どんな刺激であってもクオリアになりうる、という主張がしやすくなるのではないかと思います。 また、たとえば青という色は様々な経験と結びついているのであって、クオリア論者が行うように、色単独で論じることに意味があるのだろうか、という指摘は興味深いです。 後半の中で特に面白いのは、人間が実際に取得している外界の情報がいかに貧弱であるかという話です。 トランプを一枚、絵柄が描かれた面を向こう側に向けたまま手に持って、一番遠くまで手を伸ばし、視線は真正面を向けて、そこからトランプ五枚分ほど離した位置に手を持ってきます。この時点でトランプを裏返して、番号とスート(絵柄)が何であるか、当てられるでしょうか。 これ、実際にやってみると、本当に分からなくて、びっくりします。かろうじて色が分かる程度です。つまり、視野の周辺ではそこまで細かいものが見えないということ。人間の眼がはっきり物を見れる範囲はかなり狭いということ。 それなのに普段、視野の端まですべてはっきりくっきり見えているように感じられるのは、脳が補っているからです。 では、どのように補っているのか。 記憶に基づいて頭の中で風景全体を描き出しているのでしょうか。 別の実験。 以下の方眼の各行に、上から順に GAS、OIL、DRY という文字列を入れてください。実際に書き入れてはダメです。頭の中で書き入れている様を思い浮かべること。 しっかり脳裏に浮かびましたか? 上の行から順に、GAS、OIL、DRY です。その光景を思い浮かべることができるでしょうか。 それでは問題。映像を思い浮かべながら答えてください。先ほどの文章を見て確認してはダメです。 思い浮かべられているようでいて、全然思い浮かべられていない。 photographic memory(写真を撮るように、目に見えている光景を完全に記憶する能力)という言葉がありますが、一般人には photographic imagination すら困難ということでしょう。 しかし、過去の光景を思い浮かべる時、まるで実際に見ているかのようにはっきりと思い浮かべられていると感じることはしばしばです。 ということは。 逆に考えてみると、「自分が今見ている光景」も、実は「はっきり見えているように思っているだけ」なのかも知れない。「思い浮かべられていると思いこんでいるだけ」と同様に、「見えているかのように脳が処理しているだけ」なのかも知れない。 たとえばマリリン・モンローの顔写真で埋め尽くされた壁紙の部屋に入ったとしたら、周囲のマリリン・モンローはほとんど見えていない、といったことが考えられます。視覚野では処理されておらず、脳のもっと奥でそのような光景が描き出されているわけでもなく。結局、「そのような部屋にいる」という命題的な情報だけが存在する、という可能性。 人間の眼には盲点がありますが、特殊な状況に置かれない限り自覚されることはありません。これも、脳内で足りない部分を補って描いているのではなく、そもそも「情報が無い」という情報を使っていないというだけ。あたかも周囲が完全に見えているかのように思わせておいて、それで問題が生じるまでは情報の欠乏を自覚させない。 変化の見落とし(change blindness) という面白い実験もありますが、これも関係するのかも知れません。間にフラッシュ挟まるだけで、写真のどこが変化したか分からなくなってしまう。人が注意を向けられている範囲は本当に狭い。 空間の構築力がこれほど貧弱なら、色の区別はどうなのでしょうか。どれだけ色をはっきり区別できているのでしょう。我々が口で主張するだけのたくさんの「色のクオリア」が本当にあるのでしょうか。 もちろん、これらの議論だけでは意識というものの存在をゼロにはできていないと思うのですが、それが我々が通常考えるよりもごくごく小さな機能しか持たないものなのかも知れない、という主張は興味深いと思います。 こうやって考えてくると、「脳内の物理的な状態がどうであれ、僕にとって重要なのはこの主観的な世界、このように見えているということなんだ」という主張は、「見えているという命題が大切」というだけの意味になってしまうのかも知れません。
℃ Taro Tezuka (2006.8.10)
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