【報告】
道ばたで百人一首+美空ひばり館見学

道ばたで百人一首をするために、嵐山に行ってきました。紅葉の見頃ということで、とてつもない賑わい。渡月橋の上は通勤ラッシュ時なみの混雑具合です。

今回の企画の名称は「百人一首と美空ひばりの会」ということで、以下の内容を行う予定でした。


任天堂の学習型アトラクション「時雨殿」にて百人一首の勉強
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近所の公園でアウトドア百人一首

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11月末で閉館する美空ひばり館を見学
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カラオケで「川の流れのように」を熱唱


嵐山は百人一首発祥の地のようです。今から八百年ほど前、藤原定家という人がこの近所にある山荘の襖に貼るために選んだのがその始まりだとか。

百人一首を一対一で取り合う「競技カルタ」はお正月のテレビ放送でお馴染みであり、次第に知的なスポーツとして認知されつつあるかと思うのですが、我々はこれをさらに開放的なアウトドアスポーツとして発展させるべく、今回の野外百人一首大会を開催する運びとなりました。

八百年の時空を越えて我々は今、百人一首に新しい地平を切り開こうとしています。

正午、渡月橋の北側に集合した我々七名程は、まずは周囲の方々にこの活動を知っていただけるよう、簡単な案内板を作成しました。

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野外百人一首
親善試合

ご自由にご参加ください。

平成18年11月26日
日本百人一首連盟
アウトドア派
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「京都予選、にしておいた方が良くないですか。これが決勝と思われたら、しょぼい団体に見られるかも」

という意見も出ましたが、実際にしょぼい団体なので、偽るわけにはいきません。

段ボール箱の両面に上記のメッセージを貼って、完成。

すぐに試合を始めたい所でしたが、その前に勉強して、モチベーションを高めることにしました。

そこで、今年の一月に新しくできた嵐山の新名所、「時雨殿」を訪問。

任天堂の元社長である山内溥氏が私財を投じて建設した施設であり、百人一首に関する展示や体験型のアトラクションが常設されています。任天堂はもともと京都で花札や百人一首を作っていた会社でした。ちなみに我々が今回の野外大会で使用する百人一首も、任天堂謹製です。

建物の中に入ると、さっそくポータブルゲーム機のニンテンドーDSを渡されます。
和風なカバーが付いていて、婦人用の財布か何かのようです。

「これは最初のバージョンのDSだね」とH谷くん。

一階には大きな部屋がひとつあり、床には大型ディスプレイが五十個くらい敷き詰められています。その上に表示されているのは京都の上空から撮影した航空写真。

天井にはセンサーが並べられ、各人の現在位置を捉えていて、手元のニンテンドーDSに現在立っている場所ゆかりの百人一首が表示されたり、その方向への案内を出してくれるという仕組み。

途中でカルタ取りモードに切り替わると、各人が自分のDSに表示された札を求めてディスプレイの上を走り回るというゲームになります。

今回参加してくださった中村先生はユーザインタフェースの研究者であり、知り合いから時雨殿が面白いという話を聞いて以来、興味を持っていたそうなのですが、実際に試してみて、

「なかなか良くできていると思いましたよ」とのこと。

今回の企画、学術的な意義も大きかったようです。

また、二階には様々な種類の百人一首が展示されていたのですが、「愛国百人一首」というのがなかなか興味深かったです。

戦争中、通常の百人一首は軟弱だということで、陸軍省や海軍省の後援のもとに作られた愛国的な百人一首です。どんな歌が選ばれているかというと、

  大君の 御旗の下に 死してこそ 人と生まれし 甲斐はありけれ

  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも とどめおかまし 大和魂

なんだか、熱いです。愛国です。

現在も発売しているのか分かりませんが、かなり遊んでおきたい百人一首です。

愛国百人一首

あいにく時雨殿では販売していませんでした。

百人一首の勉強を終えた我々は渡月橋を渡り、大堰川の中州へ。

いよいよ屋外百人一首を広める活動の開始です。

中州は砂利を敷き詰めた公園になっていて、いくつか屋台も出ています。人通りも多い。

そのど真ん中にござを広げ、札を並べ始めた時。

十メートルほど離れた場所にあったイカ焼きの屋台から、角刈りの親父がずしずしとやってきて、怖い顔で聞いてきます。

「何かイベントするの?」
「あ、はい」
「許可、もらってるわけ?」
「いや、それは……」

途端に親父、態度がでかくなって、

「あかんでぇ、こんな所でやられちゃぁ」
「そうですか」
「当たり前やでぇ。ここ、公園やでぇ、公園。そんなんしたら、あかんやろっ」

それほど屋台に近いという訳でもなかったのですが、視界に入ってしまったのがまずかったようです。

頑固さの代名詞のような屋台の親父を前にしては、さすがの屋外百人一首連盟もたじたじ。

おとなしく引き下がりました。残念です。

そして屋台から見えない場所まで移動し、そちらで実施することにしました。

「我々、個人の集まりではなくて、イベントとみなされたんですね」と、前向きに捉えるKGC理事長の柴田さん。

五十メートルほど移動し、屋台の視界に入らない位置まで来ました。ここは川からもほど近く、眺めは良い場所。人通りもそれなり。

再びござを広げ、札を並べ始めます。

数分もしないうちに、通りがかりのおじさんが立ち止まり、覗き込んできました。

結構百人一首を知っている人のようで、「そんな散らばせて並べない方がいいよ」などと言ってくれます。

アドバイスに従って、競技カルタのように、半分ずつ向き合う形で整えて並べました。

「間にスペースも空けた方がいいよ」というアドバイスを受けて、どんどん本格的に。

いよいよ札を詠み始めようとすると、

「ちょっと待って。しばらく憶える時間をおかないと」と止めるおじさん。

数分間、皆で札の場所を暗記しました。

そしてついに、屋外百人一首大会の開幕。

参加してくれた皆さんは僕の予想を遙かに上回って、百人一首のできる人たちでした。下の句が読まれる前に札が取られることもしばしば。

やがて周囲には結構な人だかりが。

しかし、覗き込む人ばかりで、実際に競技に加わってくれたのは最初のおじさんだけ。

おじさんはかなり積極的で、ござの外に立ったまま、「えーっと」と言って、傘の先で自分の近くにあった札をポイントします。正しい札。

僕らが見つけられない時だけを狙って、合計二枚、取っていましたが、途中で携帯に電話がかかってきて、去っていきました。奥さんから呼び出しでもかかったのでしょうか。

その後も競技は継続。最後の方は一瞬で札が取られる状態が続き、それなりに真剣勝負に見えました。

雨に降られることもなく、無事に最後の一枚まで取り尽くし、最終的に優勝したのはKGC研究員の可知さんでした。おめでとうございます!

そして一日の日程を締めくくるのは美空ひばり館。
嵐山の超人気スポットであるにも関わらず、11月末で閉館してしまうということで、これが訪問のラストチャンスでした。

ホテルのロビーのように豪華なエントランスを抜けて、展示のある二階に向かいます。

壁一面を埋め尽くすレコードのジャケットや雑誌の表紙。その間に埋め込まれたディスプレイでは、常時美空ひばり関連の映像を上映中。

美空ひばりが映画の子役としてデビューしたというのは知っていたのですが、その後、時代劇にたくさん出ていた時期があったようで、そういう背景を知らなかった僕としてはちょっと不思議な印象を受けました。ミュージカル映画という感じでもなく、単なる時代劇。稀代の歌姫なのにもったいない!というのは勝手な押しつけでしょうか。女優としても優れていたのかも知れません。

閉館前の最後の週末ということでものすごく混んでいたのですが、車いすのおばあちゃんたちがたくさん来ていたのが印象的でした。ビデオの前で何度も再生ボタンを押して、往年の名曲を聴いていました。ものすごく懐かしく切ない気持ちになっているのではないかと思いました。こういう「高齢者の遊び場」のような場所は、もっと全国に出来てもいいような気がします。大阪の新世界に通じるものを若干感じました。

美空ひばりは戦後間もない昭和21年、9歳で初舞台を踏み、昭和24年に「悲しき口笛」で映画デビュー。その主題歌は戦後の復興期、人々に広く親しまれました。昭和35年には「哀愁波止場」でレコード大賞歌唱賞を受賞。同時に銀幕のスターとしても活躍。白黒の時代劇です。この時期、雑誌「平凡」の歌手人気投票では12年連続1位を獲得。代表曲「柔」を発表したのはそれより後、昭和39年。その後、「悲しい酒」「真っ赤な太陽」と続きます。昭和50年代にはヒット曲には恵まれなかったものの、ポップスやジャズにも進出してレパートリーを広げ、さらには舞台を中心に精力的に活動を続けていました。しかし、最大の理解者でありプロデューサーでもあった母、二人の弟、親友の江利チエミが相次いで亡くなり、寂しさを紛らわすための酒とたばこの量が増し、急速に体を壊していったそうです。

昭和62年、公演先で倒れ、数ヶ月の療養。翌昭和63年には東京ドームのこけら落とし公演として「不死鳥コンサート」を行い、ファンに復帰をアピール。けれどステージの裏ではベッドと酸素吸入器が用意されていたとか。

明けて平成元年、自らの人生を歌い上げるかのような「川の流れのように」が大ヒット。その年の六月、昭和を代表する歌姫は五十二歳の生涯を閉じました。


川の流れのように(一部)

生きることは 旅すること
終わりのない この道
愛する人 そばに連れて
夢 探しながら
雨に降られて ぬかるんだ道でも
いつかは また 晴れる日が来るから


今生きていれば七十歳くらい。当時の力みなぎるライブの映像を見ていると、まだまだ舞台を踏めていたのではないかと思います。この稀代の歌い手に現代の曲も歌って欲しかったものだ、という感想を抱きました。

地下のおみやげ売り場には椅子のたくさん並べられたステージがあり、大画面のスクリーン上でコンサート映像が上演されていました。四十代くらいの時の舞台でしょうか。とにかくパワーに満ち溢れていて、人生にエールを送ってくれる感じです。

ステージトークではかつて共演した男性俳優の名前を挙げて、

「誰々さんも何々さんも、お腹が出てきていいおじさんになってきていますけれど。ひばりは皆さんから元気をもらって、ますます若く!」 とか言ってました。

スクリーンの前の席は、おじいちゃんやおばあちゃんたちによって埋め尽くされていました。

kogeさん情報によると、美空ひばり館が閉館するのは人気が無いからではなく、レンタルしていた衣装などを返却する期限が来たからだそうです。だとしたら、なおさら残念な気もします。

入館時に渡されたパンフレットに書かれていたキャッチコピーは、

「ともに泣き、ともに笑った いくつもの思い出がよみがえる。」

何の思い出も無いのですが、それでも良い場所でした。

あとひとつ、嵐山で見ておきたい場所といえば、「嵐山モンキーパーク」でしたが、これは雨のため次回にまわすことにしました。kogeさんやさとっちさんのお奨めで、山頂まで上がるとちょうど猿に囲まれて人間が観察されるような形になるとか。kogeさんは3回行ったことがあるそうです。次に嵐山に来た時に立ち寄りたいと思います。

西院まで移動して、最後の締めのカラオケ。誰も来てくれず、僕ひとりで行くことになるのではと心配していたのですが、可知さんとさとっちさんが来てくれました。加えて、KGCのmoritamaさんが合流。四人でカラオケ。

川の流れのように」「」「愛燦燦」「真赤な太陽」など、美空ひばりの名曲の数々を熱唱。意外と皆さん、歌えるものです。

すべての予定を貫徹し、めでたく解散したのでありました。

℃ Taro Tezuka 2006.12.31
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